春一番

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美しい音楽の中にいた。

「蒼原さんが来ないことは聞いていませんでした」
「しょうがないじゃないか、蒼原は今日用事があったのだから」
「知っていたなら先に教えてくれてもよかったじゃないですか、青雲」
「だってそれ教えたら君来ないでしょ」
「まあ、はい」
「少しは否定しなよ…」

 今日、青雲と青雲の弟の海想は竹凛の通うピアノ教室の発表会に来ていた。つい一週間前に竹凛からパンフレットを渡され、自分が出るからよかったら見に来てね、と言われた。これといって用事もなかったため来ることにしたのだが、一人で行くのはちょっと気が引けたので海想についてきてもらったのだ。ただ一つ誤算だったのは蒼原が来れなかったこと。会えると思って楽しみにしていた海想は少しへそを曲げてしまったのだ。しかし青雲はそれを気にすることなく、楽しそうにからから笑った。

「竹凛兄さんのピアノを弾く姿をこうした形で見るの、初めてじゃない?」
「たしかに、あまり僕たちに進んで見せることはなかったですよね、あの人」
「そうだよねえ。第一、こういう発表会に誘われる事自体初めてでしょ。ピアノの発表会、今まで弾いた人たちもすごくうまかったねえ」
「はい、きっと練習もたくさんしているでしょうし」
「まあ、たしかにねえ。あ、ほら竹凛兄さんの出番だ。」

 アナウンスが入り、竹凛が舞台袖から現れる。スーツを来てピアノ前で礼をする姿は悔しいがとても様になっている。竹凛が弾く曲はショパンのノクターン第20番嬰ハ短調「遺作」。青雲と海想は初めて聞くその曲に、竹凛の演奏に二人は一瞬で飲み込まれた。切なく哀しく聞こえる旋律はあまりにも圧巻だった。演奏が終わって、拍手が響き、竹凛が礼をする姿を見て、やっと青雲は現実に引き戻される。海想は目を見開いたまま拍手を送っている。

「…すごかったね」
「…ええ、悔しながら」
「竹凛兄さん、こんなにピアノうまかったんだね」
「不覚にも、胸が高鳴りました」
「これ、身内贔屓じゃないよね」
「たとえそれをマイナスしても素晴らしいという言葉しか出てきません」

 珍しく饒舌に褒める海想に青雲はへえと、感心する。しかし、それ程竹凛の演奏はすごかった。ふと、竹凛がこちらに気づいたのか目線をこちらに向け微笑む。少し上のほうから小さく黄色い悲鳴が聞こえた。いつもだったらそれに対して嫌味の一つもいう海想が、なにも言わずに竹凛を見つめた。

「ああしてれば竹凛にいはかっこいいのに」

 ぽつりと海想が零す。しかし次の瞬間はっとして首をゆっくり回しながら青雲の方を見た。青雲は笑みを浮かべながら手すりに頬杖をつく。

「やっぱりかっこいいよね〜」
「今のは失言です。忘れてください、青雲」
「いや、なにもそんなに恥ずかしがることじゃあ…」
「忘れてください」

 うぐぐぐぐ、と海想はこめかみを人差し指でおす。いつの間にか耳を赤く染めていて本当に無意識に口から零れたのだと分かった。

「…竹凛にいに対して興奮したのは失態でした。青雲、黙っていてくださいね」
「えぇ…絶対竹凛兄さん喜ぶのに」
「だから嫌なんですよ」

 海想は竹凛に対してものすごく切れ味が鋭い。ただ辛辣に言いながらも、言動の端々に尊敬の意が見え隠れしている。中学生という多感な時期になり、慕ってる相手を手放しで褒めたり、態度に表すのは恥ずかしいのだろう。しかし、これ以上何かいうと海想が拗ねかねないので青雲は、分かった分かったと答える。

「だけど、たまには素直に伝えてあげなよ。竹凛兄さん、海想のこと大好きなんだから」
「…気が向いたら」
「絶対言わないやつじゃん」

 海想は両手で真っ赤になった頬を抑えながら、舞台の方に向き直る。もう竹凛は舞台の袖に行ってしまい、そこはピアノがおいてあるだけで空っぽになっていた。海想はまた先ほどの竹凛の演奏を思い出して、不貞腐れたようにため息をついた。



「それができたら苦労しません…」

3/19/2023, 3:06:30 PM