お題 理想のあなた
動物的細胞変形症―――通称、ユピテル症候群。
彼女がそう宣告された時の顔を、俺は多分、一生忘れない。
ユピテル症候群――罹患した者は、一日に一度、本人が望む姿に変身する奇病。
望めば、世界一の美女になることも、人外の生物になることも可能だという。
ただしその代償として、罹患した者は数ヶ月程で息絶える。
「もしかして先生、私が可哀想とか思ってる?」
新雪の如き純白の体を持つ猫は、まるで人間のように笑う。
「医師としてはな。」
「やめてよね同情なんて。そんな安っぽいもの貰ったって、ちっとも嬉しくないから。」
猫の声帯から少女の声がするその光景のミスマッチ具合にはまだ慣れない。
「そんなことばかり言ってるから、友達が誰一人としていないんじゃないか?」
「るっさい。」
金の目で睨まれるが、毛程も怖くない。
「とにかく、さっき説明した通りだ。これから毎日丁度日付が変わる瞬間、君は別の何かに変化する。それが例えば蟻なんかの小さいものだったり、魚なんかの水中で生きるものだと対応が大変だから、前日までにこの変身届出証に望みの姿を書いておくこと。……一応言っておくが、宇宙人とかそういう無茶なものは書かないように。」
「分かってる分かってる。」
毛繕いをしながら生返事で答える。
「あと、これが一番重要な。」
ユピテル症候群が終わる日、つまりお前が死ぬ日の姿だけは自分で決めることができない。これはどの患者も一緒で、シーラカンスになったり桜になったりと様々な例が観測されている。その日の前日にはみんな揃って雷みたいな痣が出るらしいから、見つけたらすぐ教えるように。
「それじゃ、あと数ヶ月。短い命だが頑張れよ。」
「はーい。」
病室の扉に手をかけると、「ねぇ先生?」背後から声をかけられる。
「医師としてじゃなくて、浮気されてフラれた元恋人としてはどう思ってる?」
ほんの数秒、時が止まる。
ようやく動いた俺の口は
「ざまぁみろって思うよ。」
ありきたりな言葉しか紡がなかった。
あれから彼女は色んなものに変身した。
目がやたらでかいポメラニアン、鉢に植えられた蒲公英、妖しげな雰囲気の美女、雀、菊の花、緑の濃い雨蛙、往年の俳優のような老紳士、毛量の多い羊、一輪挿しのガーベラ、エトセトラ、エトセトラ………………
マッコウクジラと書いてきた時は流石に止めた。
毎日対応に追われることにも慣れてきた。
しかし、それも明日で終わる。
「あともうちょいで明日ね。」
穏やかな目をした老女は、首筋に痛々しげに刻まれた赤黒い稲妻型の痣に触れる。
「…最後にやり残したことは無いか。」
「あるわけないでしょ?もう全部やりきったわ。」
キッパリと言い切るその姿が古い記憶に重なる。
「…ほんと、相変わらずだったよな。その人を舐め腐ったみたいな口調。」
その姿に惹かれて、嫌悪した。
「私だって、言わなかっただけであなたの嫌いなとこいっぱいあったのよ?医師としても、一人の人間としても。」
目玉焼きにドレッシングかけるとこでしょ、飲み物買ってきたら全部炭酸なとこでしょ、おにぎり全部塩味で作るとこでしょ、それから……
指折り数え始めた彼女の姿に何故か笑いが込み上げる。
「随分つまんない事で悩んでんだな。」
「当たり前でしょ?つまんない事こそ譲れないものが多いのよ。」
今度こそ堪えきれず笑ってしまう。
何だか、酷く懐かしかった。
彼女とただの人間として話すのも、心から笑うのも。
「とか言ってたらほら、もう日付が変わるわよ!」
時計を見れば、確かに秒針が長短の針と並ぼうとしていた。
「じゃあな。最後の日はもうどんな姿でも話せなくなるから、これが正真正銘最後の会話だ。」
「分かってるわよ。」
ベッドに横たわるしわくちゃな顔が、まるで未来の彼女のように見えた。
「バイバイ、またね。」
カチ、と音がなり、デジタル時計の表記はゼロに戻る。
ベッドでは、一匹の赤い熱帯魚が苦しげにバタバタと動いていた。
正直なところ、彼女が熱帯魚になることは何となく分かっていた。
昔、まだ付き合ったばかりの頃。
初デートの水族館で見た、熱帯魚コーナーの水槽。
緑草に映える赤い体に、何となく隣に立つ彼女の姿が重なった。
あれはきっと、本能的な感だったのだろう。
水槽の中、まるでたった一人のステージみたいに、鮮烈な赤だけ残していくその姿を、僕は一生忘れないだろうという予感。
それはきっと、病名を告げた時の彼女の顔――満面の笑顔――と一緒に、これからも残り続けるだろう。
そんなことを思いながら、水槽の中で腹を浮かばせて死んだ彼女をビニール袋に入れ、生ゴミのペールに捨てる。
蓋が閉まる直前、どうせなら握り潰せば良かったな、と今更ながら後悔した。
5/20/2023, 5:14:07 PM