かつてないほどあった満開の桜。
枝にあるのは、あと…
風が吹けば、それで終わる。
「ねえ、〈君〉」
隣にいる〈君〉は、いつも通りそこにいるのに、
どこか遠くにいるみたいだった。
「もうすぐだね」
〈君〉は、少しだけ間をおいて頷く。
「……うん」
それだけで、十分だった。
風が吹く。
花びらが、ひとつ落ちる。
胸の奥が、少しだけ軽くなる。
またひとつ。
今度は、息が少し浅くなる。
気づかないふりをしていたものが、
ゆっくりと輪郭を持ちはじめる。
「これさ」
__が言いかけると、〈君〉が先に口を開いた。
「桜と一緒だね」
その声は、驚くほど穏やかで。
「散るたびに、少しずつ終わってる」
否定できなかった。
風が、また強く吹く。
花びらが舞い上がって、視界が白くなる。
その中で、〈君〉の輪郭が少しだけ揺れる。
「ねえ」
__は、そっと手を伸ばした。
今さら壊れることなんて、もう怖くなかった。
どうせ同じ終わりに向かっているなら。
指先が触れる。
まだ、温かい。
「最後まで、一緒に…隣にいるから」
〈君〉は、ほんの少し驚いた顔をして、
それから、やわらかく笑った。
「うん」
その笑顔を、ちゃんと覚えておこうと思った。
たとえ、そのあと全部がなくなっても。
あと一枚か、二枚。
数えようとして、やめた。
終わりを数えるのは、やっぱり怖かった。
「ねえ、〈君〉」
呼びかける。
でも、返事はなかった。
隣を見る。
そこには、もう誰もいない。
ただ、さっきまで確かにあった温もりだけが、
手の中に残っている気がした。
最後の一枚が、静かに落ちる。
その瞬間、世界の色に変化があった。
音がやわらいで、色がにじむ。
それでも、完全には消えない。
視線の先に、小さな川があった。
散った桜が、水面を流れている。
途切れながら、でも確かに続いていく、淡い帯みたいに。
__は、それをしばらく見ていた。
さっきまでここにあったものが、
形を変えて、遠くへ運ばれていく。
「……ああ」
ふと、言葉がこぼれる。
「桜流しだ」
声に出した途端、少しだけ腑に落ちた。
終わったわけじゃない。
消えたわけでもない。
ただ——
ここにあった春が、
静かにどこかへ流れていくだけだ。
風が吹く。
水面が揺れる。
その中に、ほんの一瞬だけ、
〈君〉の笑った気配が混ざった気がした。
__は、何も言わなかった。
ただ、流れていく桜を、最後まで見ていた。
4/10/2026, 1:59:30 PM