秋茜

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透明な羽根 ※ややホラー寄り。


カレンはその日、“頼まれ物“を渡すために教授の書斎に来ていた。
ノックをすると、中からはいつものように返事が返ってくる……はずだったのだが。
いくら待っても、部屋の中からは物音一つ聞こえなかった。

「教授……いらっしゃらないのかな」

カレンがノブを回すと、ドアには鍵がかかっておらず。
鈍く、軋んだ音を立ててドアが開いた。

「教授……勝手に入っちゃいますよー?」

悪いかな、とは少しだけ思いながら。
しかし、そこそこの重さのある手荷物をまた持ち帰る事はしたくなかった。
それに、そもそも“この時間に来い“と呼びつけたのは教授の方だ。
もし怒られても反論の論拠は十分にある、と自分を納得させて、カレンは教授の書斎に入っていった。

適当な空いている場所を探して“頼まれ物“の入った手提げ袋を置くと、カレンは何気なく教授の書斎を見回した。
――部屋はそこそこの広さがあり、背の高い書棚がいりくんだ迷路のようにいくつも並び、そこには見たことのない文字で書かれた分厚い本が隙間なく並べられていた。

もう、用事は済んでいるけど――。

好奇心に駆られたカレンは、部屋の奥へと
足を進めた。
奥にはまるで棚と本の山に囲まれるように大きな木製の机と椅子が一つ、壁に向かって置かれていた。

ふと、壁に掛けられていた『蝶の標本』が目に止まった。
その蝶は――大きな体躯に綺麗な透明の羽根を持ち、一目で素人にも“珍しい種類“だと分かる姿をしていた。

「綺麗……何て名前の蝶何だろう」

カレンは吸い込まれるように、半ば無意識にその蝶に手を伸ばして――。

「新種だ。 まだ、名前は付けていないよ」

突然、背後から教授の声がして、カレンは飛び上がり、伸ばした手を引っ込めた。

「教授……いつの間に! あっ……その、勝手に入ってしまってすみません」

「いや、いいよ。 呼んだのは私だ。……それより、その蝶に興味があるのかな?」

教授は、壁に掛けられていた大きな蝶の標本を指差した。

「あ、その、何となく眺めていただけで……でも、それにしても不思議な姿の蝶ですね」

カレンはその大きな蝶を眺めているうちに、何故か懐かしいような切ないような、“不思議な気持ち“が沸いてきた。

「この蝶……どこで見つけたんですか? 教授」

そうカレンが尋ねると、教授は噛み締めるようにゆっくりと、優しいトーンで語りだした。

「ああ……この蝶はね、少し前に南米のジャングルにフィールドワークに行った際に見つけたんだ。 最初は新種の発見に浮かれたさ。 学会にも、すぐにでも発表するつもりだった。……しかし」

「……教授?」

教授は、どこか見いられたようにその蝶の標本を見つめながら語り始めた。

「この蝶を見ていると……何故かは分からないが“全てが上手くいく“ような……そんな気がしてね。 不思議と手放すのが惜しくなって……標本にして、書斎に飾る事にしたんだ」

何だろう?――この感じ。
カレンはどこか、言い知れぬ違和感を感じていた。
思えばその違和感は、この新種の蝶の標本を目にした時から――膨らみ続けているような気がする。

「その、教授、お話し中大変申し訳ないのですが少し気分が優れなくなって……お話はまた今度聞かせてください」

カレンは少し気味が悪くなり始め、書斎から出ようと踵を返した。
その時だった。

「……えっ?」

カレンは、脇腹にかすかに衝撃を感じた。
確かめるように手をあてると――ぬるりとした嫌な感触が掌にじわりと広がっていく。

「きょ……う……じゅ?」

脇腹を押さえ、震えながらカレンが振り返ると……。
教授が小さなナイフを手に――恍惚の表情で笑っていた。

「あの蝶を手に入れてから、私は“何をしても上手くいく“……“何でも手に入る“……そんな気持ちが収まらなくなってしまってね……」

「な、ん……で? きょ……うじゅ……あの……蝶……は? いっ……たい」

カレンは床に倒れ付しながら、最後の力を振り絞り、顔を上げる。
透明だったはずの蝶の羽根は――教授の心に宿った狂気に呼応するかのように……いつの間にか深紅の禍々しい模様に変わっていた。

11/8/2025, 5:24:18 PM