お題【愛があれば何でもできる?】
『血肉』
君はご存知だろう。サン=テグジュペリが遺した、あのあまりにも有名な言葉を。
‘’___大切なものは、目に見えない。”
見事な台詞だ。
しかし、私たちはいつまでこの綺麗事に、なけなしの生活費を支払い続けなければならないのだろう。
愛があれば、何でもできる。
そう叫んだ男の言葉は、一種のトランス状態を誘う劇薬だった。普通に考えれば、答えは「いいえ」だ。何でもできるわけがない。家賃は払えない。胃袋は満たせない。給油ランプが点滅する私の軽自動車は、ガソリンスタンドの電光掲示板に表示されたレギュラー174円という数字の前に、ただひれ伏すのみなのだから。
金が必要だ。愛よりも、圧倒的に、紙幣のほうが話が早い。
「ねえ、本当にこれでいいの?」
彼女は、冷めかけたコンビニのグラタンをつつきながら言った。
「これでいいんだよ。」
私は、通帳の残高から目を背けて答えた。
会話はそれだけ。沈黙が、安アパートの湿った空気を吸って肥大化していく。私たちは、愛し合っているはずだった。しかし、その愛は、明日のガス代を1円も値引きしてはくれない。人間は、悲しいかな、タンパク質と水分と、いくばくかのエゴイズムでできている。水だけで薔薇を咲かせようとする試みは、やがて茎を腐らせ、泥水を残す。
だから、問い直さねばならない。
愛があれば、何でもできるのか。
私はここで、あえて、静かに「然り」と答えたい。
ただし、それは世界を変えるような全能の奇跡ではない。白馬の王子が国を救うような、そんな大層な喜劇でもない。
愛とは、何でもできるようにするための、ただ一つの錯覚だ。
金があれば、パンが買える。生活が買える。安定が買える。しかし、金は私たちに「パンを食べる理由」を教えてはくれない。生きることは、ただそれだけで苦痛を伴う。なぜ、この満員電車に揺られなければならないのか。なぜ、理不尽な上司に頭を下げなければならないのか。その「なぜ」の荒野に放り出された時、金はただの数字の羅列に変貌する。
愛があるから、何でもできるのではない。
愛という名の、救いようのない勘違いがあるからこそ、私たちはこの、金に支配された薄汚い現実を生き抜くという不可能な芸当を、何食わぬ顔でやってのけることができるのだ。
あの悲劇、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』を思い出してほしい。彼らは愛のせいで死んだ。愚かだろうか。そうだ、極めて愚かだ。しかし、彼らは死ぬことさえ「できた」のだ。冷酷な社会のルールを、家柄の呪縛を、生死の境界線すらも、一瞬の情熱で無効化してしまった。
愛は、現実を破壊する。
そして、破壊された瓦礫の上に、新しい世界の朝を連れてくる。
金が命を長らえさせるものだとしたら、愛は、命を使い切るための燃料だ。何でもできる、というのは、万能の神になることではない。何もかもを失うリスクを背負いながら、それでもなお、一歩を踏み出せてしまうという、人間だけの特権的な選択のことだ。
君も、そろそろ気づいているはずだ。
明日、世界が終わるとしても、私はやはり、手元にある最後の硬貨で、あの安っぽい青い缶のポッカコーヒーを買うだろう。彼女が初めて内定をもらった日、嬉しさのあまり自動販売機の前で足をもつれさせ、落として凹ませた、あのひどく甘くて人工的な味のコーヒーだ。それは計算の合わない、もっとも不条理な選択だ。
だからこそ、私たちは、人間なのだ。
窓の外では、夜明けの冷たい雨が、アスファルトを黒く染め始めている。
私たちはまだ、何も成し遂げてはいない。
不条理な夜は明ける、ただ、それだけのために。
5/17/2026, 3:50:31 AM