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「今日は祝杯だ」
 ぶどうジュースの入ったワイングラスを傾けて、赤く光る液をうっとりと見つめた。
 
 パパは出張、ママはおばあちゃんち、お兄ちゃんは合宿。私は家にひとりきり。こんなチャンスは、もう二度とないかもしれない。

「ひとり暮らしを満喫しちゃうもんね」
 パウンドケーキ、チキンサラダ、フルーツポンチをテーブルに置いた。
 電球が入ったキャンドルライトを照らせば、ここはおしゃれな部屋みたい。髪を三つ編みでゆるく結び、ピンク色のふわふわのジップパーカーの袖を頬に当てながら、フォークを一口大に切ったパウンドケーキに突き刺す。

「レーズンに少しだけお酒がしみてて、おいしいな。甘さ控えめで、いくらでも食べれちゃうじゃん」
 パウンドケーキを半分食べたところで、しょっぱいものが食べたくなって、チキンとレタスを口に放り込んだ。

「シャキシャキのレタスがいいねえ。でも、チキンの塩っけがもう少しほしいかも」
 立ち上がって台所の棚を見渡すと、ちょうどいいものがあるじゃない。
 コンソメ味のポテトチップスを取り出したけれど、これじゃあ、大人の夜に足りない。沖縄で買った琉球ガラスの器に、ポテトチップスをザラザラと入れる。
 ガラスの青いグラデーションが、じゃがいもの船を運んでいるみたいに見えてきた。

「これでよし。でも、手が汚れるのは嫌だな……」
 それに、おしゃれルームウェアも綺麗なままがいい。引き出しを開けて、割り箸を取り出した。

「さて。夜も更けてきたし、いい感じのBGMでも流そうかな」
 星降る夜のBGMとやらをタブレットに映し出すと、流れ星とともにオルゴールの音が落ちて来た。

「これはいいな」
 私は箸をパキッとふたつに割り、ポテトチップスを口に入れた。コンソメの粉がいっぱいついてて、おいしい。ぶどうジュースを飲むと、甘いとしょっぱいのマリアージュで、どこまでも行けそうだ。
 気づけば、パウンドケーキとフルーツポンチも加わって、甘じょっぱいのカルテットが出来上がっていた。いつの間にか、チキンサラダの上には激安スーパーで買った生ハムものっている。

「もうお腹いっぱい……」
 私はソファにもたれかかり、短パンから出た足を前に放り出した。薄暗い天井を見つめていると、まるで夜空の雲のベットに包まれているような気がしてきた。



「一花、ちょっと起きなさい」
「ふわ……眩しい?」
 目を開けると、お母さんの顔が見えた。私はソファでそのまま寝てしまったようだ。正確には、床でバンザイの体勢で転がっていた。
「一花、あんたちょっと臭いよ。昨日お風呂入った?」
「ええ……入ったよ」
「あっ、口だ。口が臭いっ。テーブルもこんな散らかして、この子はもう」
 テーブルの上を見ると、パウンドケーキのカスと、ワイングラスの底溜まりのぶどうジュースと、ポテトチップスのカケラが散らばっていた。

「うう、ごめん。つい、グスッ……寝ちゃって」
 鼻から汁が垂れた。
「あっ。一花、あんた風邪ひいてない? だから、余計口が臭いのよ。ちょっと熱を測ってきなさい」
 私は渋々立ち上がって、よろよろと歩き出す。と、合宿から帰ってきたお兄ちゃんが台所で水を飲んでいた。
「うわ。お前、人生諦めたおっさんみたいになってんぞ」
 眉をひそめたお兄ちゃんから目をそらすと、鏡に私の姿が映った。三つ編みは取れて癖っ毛が爆発、ふわふわのパーカーにはポテトチップスのカケラがいっぱい付いていて、顔はむくんでいる。もちろん猫背。

「おっさんじゃないよ。女子高生だよ……」
 鼻声でそう絞り出すのが、精一杯だった。

9/11/2025, 12:02:15 PM