「じゃ、もうそろそろ行くわ。」
軽く手を振ってそう言うお前を、玄関でにこやかに見送る。いつも通りに、上手く笑えていただろうか。行かないでくれとその袖を引けたら、可愛げのある泣き顔のひとつでも見せられたら、お前をここに引き留められただろうか。お前を引き留められるのなら、俺はみっともなく泣き喚いて地団駄を踏んだって構わない。たった一人の、唯一の親友と呼べるようなお前を、自分の醜聞程度で繋ぎ止められるなら安いものだ。
けれど、現実にはそんなことはできなかった。他の誰に何を言われたって大して気にはしないが、他でもないお前に嫌われるのが怖かった。お前の親に言われた一言が、咄嗟に脳裏を掠めていく。
『ウチねぇ、来週引っ越すのよ。今まであの子の遊び相手になってくれてありがとうねぇ。また会ったら仲良くしてくれたら嬉しいわぁ。』
そんな話、お前から聞いてない。最初の感想だった。この息苦しい田舎の町で、唯一呼吸がしやすい場所。それが、お前の隣だったんだ。お前の周りの空気だけは、澱んで埃っぽい町の空気と違って、澄んだ清々しい青春の匂いがした。そんなお前が、いなくなる。来週からどう息をすればいいのか、俺はもう分からなかった。
結局、いい案はお前が引っ越す当日まで何も思い付かなかった。特別な見送りをするわけでもなく、極めていつも通りの日常を送る。学校へ行って、道端に居た鳥の話をして、並んで帰って、どちらかの家に寄る。たったこれだけのことで、最後の一日はほとんど終わりかけていた。今日の夕方、今から2時間くらいで、お前はこの町を去る。俺の家に自然に上がり込んだお前はもうすっかり馴染んでいて、明日からこの光景は見られないんだと漠然と感じると、急に孤独感と恐怖が湧き上がった。明日からどう生きていけばいい?お前無しで呼吸なんてできるわけがない。この閉塞的で前時代的な田舎町で、「普通」になれない俺に普通に接してくれるのはお前だけだったんだ。
どれだけ俺がそう思っても、地球の自転は止まってくれない。あっという間に別れの時が来てしまった。あまりにも軽くお前が言うので、一瞬だけ、来ないはずのお前が居る明日を思い描いてしまう。軽く手を振って、「またな」なんて声をかけて。荷物とお前を載せたトラックが走り去ると、俺とお前を繋ぐのは連絡先の入ったスマホ一台だけになってしまった。お前は人当たりがいいから、きっと引っ越し先でたくさんの連絡先があの携帯に入るんだろう。家族とお前のくらいしか無い俺と違って、お前の携帯はいつもたくさんの人間と繋がっていたから。
部屋に戻って扉を閉める。机に2つ並んだコップに、半分空になった2リットルのペットボトル。少し乱れたベッド、読みかけで積まれた漫画……
こんなにも、俺の部屋はお前の痕跡が残るのに。ついさっきまでお前が転がっていたベッドに倒れ込む。まだ若干温かさを感じる布団からは、爽やかな柑橘のような香りがした。部屋に残った痕跡と、明日にはもうお前はここにいないのでという事実が突然現実として胸に突き刺さる。自然と涙が溢れていたが、それを拭う者はもう居ない。この部屋にあるお前の痕跡を、しばらく俺は片付けられそうになかった。
テーマ:ここにある
8/27/2025, 6:44:05 PM