Open App


家(テーマ:この場所で)



 昔、小さな町の小学校が火事で消失した。

 小高い山に面した坂の上にあった学校で通学には辛かったが、周囲を山の木に囲まれていて近隣の民家が少ないため苦情も少なく、学校運営には利点もあった。

 そして、町を見下ろせる景観が、生徒・教師の共通の自慢だった。

 そんな小学校が火災に遭った。
 当時の校舎は木造で、全焼してしまった。

 このため、坂の上まで歩く利便性の低さがクローズアップされ、火事を機に、小学校は移転することになった。

 学校跡地は分割で売りに出され、住宅地になった。

 同時に、裏山にあった墓地がジワジワと広がり、しばらくすると、墓地に隣接した住宅地となった。

 住宅地になってから数十年経ち、いくつかの家が建て替えられた。

 この話は、その中の、特に珍しくもない一軒の家についての話だ。

 桃太郎のような、胸のすくような話ではない。

 人間の話ですらない。

 読む方は、そういう話だと思って、読んでください。



 一軒の家が建った。何の特徴もない木造建築だ。

 そこは元々スロープ状になった土地で、かつては学校の講堂があった場所だ。
 しかし、そのようなことを知っている人はもう殆どいない。

 スロープの先は広がってきた墓地に面していたが、同時に坂道にも面しており南向きには高い建物はない。
 墓地を気にしなければ、かつて小学校の生徒が見ていた町を見下ろす景観は、相変わらず楽しむことができた。

 家主は、スロープ状の土地を土で埋めて石垣で囲うことで平地面積を増やし、それまでより広い2階建ての家を建てた。

 在来軸組工法という、昔ながらの柱と梁による家の建築である。
 枠組壁工法という安価で品質が均一な工法もあったが、南向きの窓を広く取ることでリビングから景観を楽しみたかった家主は、壁面を大きく取る必要があるその工法を選ばなかった。
 また、スロープ状の土地を埋め立てたため地盤も頑丈とは言い難く、家の基礎もよく使われる「布基礎」ではなく、費用がかかる「ベタ基礎」となった。

 余分に費用がかかったが、仕方がなかった。

 その分、こだわり部分は譲らなかった。

 決して広くない庭に、柿の木を植えた。
 また、かつて学校が売却された際に残されたのか、土地にあった鉄棒も、庭に埋め直した。

 完成した家は、木造二階建て。日が入る南側に1階は広いリビング、2階はこども部屋で、どちらも大きな窓から町を見下ろすことができた。
 太陽熱温水器で日当たりの良さを風呂を沸かすガス代低減に活かしてみたりもした。
 間取りの関係から決して広くない台所には、半地下の収納を追加することで漬物などもしやすくした。
 台所はリビングと繋がっており、家族団らんをしながら料理ができることを狙っていた。

 家の周囲は北と西には民家が、南は墓地と坂道から町を見下ろせ、東は山道と、山道の向こう側の山壁に根を張る大きな樹木に面していた。

 柿の木は、山道側を通って墓参りや山登りをする人からリビングが見えないようになる目隠しの役目もあった。



 家に住むのは家主夫婦と家主の両親夫婦、家主の子ども3人の3世帯7人だった。

 これまでの家は部屋数が少なかったため、部屋数もリビングも広くなって家族全員がおおむね満足していた。

 特に子どもたちは、墓地に面しているが、同時に街を見渡せる景観が良く、真新しく広い家を無邪気に喜んでいた。

 夜は怖がっていたが、しばらくすると慣れ、むしろ持病になった小児喘息の発作の方におびえていた。

 柿の木は数年すると毎年柿の実をつけるようになり、家族のデザートになった。

 子どもには柿はいまひとつ受けが悪かったが、家主が柿の木の大振りな枝にロープを張ってブランコにしたときは、大喜びでよく遊んでいた。
 柿の木の横にはプレハブの倉庫があり、大工道具と釣り道具が収められていた。
 釣りは、家主と家主の父が趣味にしていた。家の側には魚の住むような川はなかったため、たびたび車で釣りに行っていた。

 2階は子供部屋と、家主夫婦の寝室、そして書斎だった。寝室にはレコードが揃えてあり、海外のレコードが揃っていた。

 子どもはおっかなびっくりレコードの使い方を覚え、特撮番組の曲が入ったソノシートを繰り返し聞いていた。

 子どもは小学生になると、放課後の有り余る時間を使い、ある意味家主よりも家を探検した。家主としてはもっとスポーツに打ち込んだり、何なら裏山で飛び回ってもらうほうが安心だったかもしれない。

 家主があまり子どもに見せたくない本も見つけたし、押入れから屋根裏に上がることができることも発見した。

 気に入っていたこどもの日の鎧兜の模造刀を、最初は屋根裏に入れ、次に台所の半地下収納に隠した。
 そして、隠したことも忘れてしまった。

 しばらくして、半地下収納はほとんど開けられることがなくなり、上に段ボールや棚が置かれてしまった。



 新築の家も、住んでいれば当然、古びてくる。

 子どもの背が高くなる度に、一家は柱にマジックで線を書いた。
 和室の障子は破れる度に柄のように切り貼りした。
 子どもは3人になり、子供部屋は手狭になった。

 外部だけではない。
 埋め立て地盤をカバーするためのベタ基礎であったが、震災による耐震性などが見直される前の基準であった。

 大きな地震によって家はわずかに傾き、リビングの床はビー玉が転がるようになった。
 それでも、一家は、石垣が崩れたりしないだけマシだと思っていた。

 太陽熱温水器は、長年の汚れからか、給湯すると黒いカスのようなものが出るようになった。
 大きな窓は、そのまま内部の熱が逃げる最大の場所になった。
 窓ガラスだけでなく、窓枠が伝熱性の良いアルミサッシであることも、要因の一つであったかもしれない。

 しかし何より、建築した時とは日本の気候が変化し、地球温暖化によってか、夏はより一層暑くなり、冬はより一層寒くなった。


 地震から数年経ち、家主の父が老衰で逝去した。
 その日から数日は、家は葬儀屋の手によって白黒の幕が張られ、葬儀場となった。
 まだ、今ほど葬儀場の葬儀が一般的でない、ギリギリの時代だった。

 更に数年経ち、上の子どもが大学や社会人となり、3人の子どものうち2人が家を出た。


 家の使い方は代わり、古びた部分も出てきたため、家主は度々リノベーションを行った。

 バリアフリー化して床を平坦にして、トイレと風呂に手すりをつけた。
 風呂も太陽熱温水器を外し、オール電化機器を導入してガスを止めた。
 2階にもトイレを設置し、エアコンも追加した。
 介護が必要になった家主の母のため、大きな音のなる呼び出しブザーなどもつけた。

 そして、プレハブは取壊し、家に防音室を増築した。これは家主の趣味だった。

 子どもたちは、家に帰省したときは新しくなった家の設備に喜んでいたが、3人が3人とも結婚も、子どもも設けなかったため、帰省時のみの賑わいにとどまっていた。


 家の裏の山道については家の外であるため、増改築での対応は無理であった。

 年々激化してきた豪雨などで度々土砂崩れしている箇所があり、道を挟んだ先の大きな樹木も家主の心配の種になっていたのだ。

 何しろ大きな木だ。土砂崩れがおき、樹木が家に倒れてくれば、家は潰れてしまう。
 役所に対応を依頼したが、民地らしく勝手に切ることはできないとの回答であった。

 家主は、いざというときは柿の木がクッションになってくれることを願っていた。


 築50年が過ぎ、心配が実現する前に家主が世を去った頃、相続した家主の妻と3人の子どもたちは話し合って、坂の上り下りが厳しいとして、不自由な立地から、結局、家を売ることにした。



 売られた家は、まだ若い別の家族にすぐ買われた。

 坂の上り下りが厳しいのは高齢者であり、若い家族は特に問題に思わなかったのだ。
 新しい家主と家主の妻、そして小さな子ども。

 家は、築半世紀を超えて、新しい住人を迎えた。

 50年経っていたが、前の家主の増改築によって、そこまでの古さは感じさせなかった。
 また、高度経済成長期に働いていた前の家主と比べ、新しい家族は不況が長期間続いている期間で働いているため経済状況は比較にならない。
 新築など考えることもできなかった。

 家にとって2番目の住人となる彼ら家族は、家を大事に使っているように思えた。
 以前の家主一家が置いていった家具などもほとんどそのまま使い、使えないものだけを捨てていた。

 そのため、冷蔵庫も棚も、置いていった食器も、そのまま使わせてもらっていた。

 子どもは前の一家と同様に墓地に怯えていたが、やがて慣れた。
 夫婦は、外気の冷気が入りやすいことや、山に近いために虫が出やすいことに悩んでいたが、やはりこれも慣れた。

 家を十分以上に探検し、喜んでいたのはやはり子どもだった。
 トイレが1階と2階の2つあることに驚き、子供部屋の広さに満足した。
 しかし、台所の棚を動かすことはできなかったので、台所の半地下収納の中に隠された模造刀は発見できなかった。

 というより、この一家はそもそも台所の下に収納があることに気がついていなかった。


 築年数に比べて相当に住みやすい家であったが、同時に、建築時は7人で住んでいた家である。
 夫婦3人で住むには広すぎたのだ。

 夫婦はよく親戚を招待してパーティーなどを行って、空いている部屋を使用したが、やはり年間のほとんどの期間は空き部屋になる部屋がいくつもあった。

 使わない部屋をルームシェアなどで活用してはどうかと夫婦で話すこともあったが、玄関や動線は一つであり、子どももいるので結局実現しなかった。

 新しく出た掃除ロボットなどを活用して、キレイに保つようにしたくらいである。

 2番目の住人の家族は、大事に家を使っていたが、10年以上経過し、子どもが大学で家を出てからは、より一層静かな家だと感じるようになった。
 大学を卒業した子どもが東京で就職し、帰ってこないことがはっきりしてからは、夫婦は広すぎる家について考えるようになり、結局、売ってしまった。



 家は、夫婦から不動産屋へ売却されたが、不動産屋はそれをどうするか悩んでいた。
 築年数が相当経っているので解体して土地として売るか、再度建売をするか。
 または、賃貸で住人を募集してみるか。
 とりあえず、一番金のかからない、「家具つき物件」の賃貸で募集してみると、あっさりと応募が遭ったため、不動産屋は考えるのを辞めた。


 次に住んだのは、高齢の老夫婦だった。
 夫婦は最初から2階部分を使うことを諦め、バリアフリー化している1階部分だけを使用した。

 買い物には不便であったが、この頃になると、スーパーが食材や食事を届けるサービスの対象地域になっており、あまり外出しない老夫婦には、静かな環境は快適だった。

 また、夫はレコードがあることに喜び、防音室で懐かしい曲を聞いて楽しんでいた。

 妻は、小さな庭に畑を作ってミニトマトを育てたりしていた。

 この夫婦が住んでいる時、ここは、時間がゆっくり進む家となった。

 老夫婦は、照明部分だけ工事を行った。

 壁のスイッチをやめて、リモコンとセンサーによる照明に切り替えたのだ。
 これで、老夫婦は生活に完全に満足していた。

 この生活は、家が本格的に老朽化してくるまで10年続いた。

 オール電化機器が壊れたことで風呂・台所がまともに使えなくなったころ、老夫婦も体が満足に動かなくなったため、老人ホームへ移った。



 再び不動産屋はこの家をどうするか考えることになる。
 オール電化機器が壊れたことが、この家の賃貸物件としての価値を激減させていた。
(しかし、この時点で解体しては赤字だ。)
 不動産屋が家を購入した際の価格と、老夫婦の10年の家賃、解体のための費用が釣り合っていないのだ。

 しかし、世の中の経済状況は少子高齢化から決定的に悪くなっており、家の周囲どころか、全国的には自治体自体が収縮・消滅傾向にあった。

 全国各地に「廃村」「廃町」は珍しくなくなっていた。

 悩んでいたところを、一人の作家が建物ごと不動産屋から購入した。

 不動産屋は、頭の悩ませる物件から一つ開放されて喜んだ。


 作家はあまり売れていなかったが、オール電化機器を取り付け直すと、ひたすら家に籠もった。

 作家が気に入ったのは防音室だった。

 周囲の生活音が気になる性質出会った彼は、執筆の際にはその部屋にこもった。
 執筆が終わっても、用がある時以外は家から殆ど出ずに、前の老夫婦と同じように宅配サービスに頼った生活をしていた。

 作家は5年間そこで暮らしたが、やがて本が当たり、大金を得た彼は東京へ引っ越して行った。

 家を所有したまま。



 5番目の住人は、複数の若い学生だった。

 作家は、年の離れた甥が地方の大学に行くことになったと聞き、そういえば昔住んでいた家がそのままなので、と甥に住むように言ったのだ。

 甥は、ワンルームでも最新家電が揃った部屋で生活したかったが、家賃がタダなので妥協した。

 更に甥は、一人で住むには広すぎることをひと目で判断した。
 寂しい大学生活が嫌だった彼は、サークルの人間を「家賃格安でルームシェアしないか」と次々誘い、完全に溜まり場にしてしまった。

 周囲は墓地と、人が少なくなった住宅地。
 文句も殆ど出なかった。

 若さがあり余っているサークルの若者たちは、何十年も設置したままだった棚を動かし、冷蔵庫を入れ替え、自分たちの住みやすい基地に作り変えていった。

「うわ、なんだこれ。日本刀あった!!日本刀!!」
 ついには台所の半地下収納から、最初の家族の子どもが隠したままの模造刀を見つけたりもしたが、模造刀だとわかると、棚に放り投げ、たまにサークルの人間がふざけて振り回すおもちゃになった。


 しかし、その彼が卒業を控えた大学4年の時、事件が起きた。

 人が少なくなったご時世。若い人間が毎晩集まって騒いでいるのを見て、金を持っていると勘違いしたのか。

 強盗が入ったのである。



 その強盗は、日本語が話せないようであった。
 その日に家にいたサークル仲間は、作家の甥を含めて3人。

 インターホンが鳴り、誰か別のサークル仲間が着たかと家主代理の作家の甥が不用意に玄関を開けると、目出し帽を被った強盗が立っていた。

 強盗は一人だったが、刃物を持っていた。
「カネ、出せ」
 作家の甥は腰が抜け、大声を出せなかったが、すぐ横にあった紐を引いた。彼はそれがなにか知っていた。最初の家主が、母の介護に使おうと家の各所に設置したブザーだ。

 リビングに大きな音がなり、不審に思った残り二人が玄関を覗くと、そこには目出し帽と刃物。

 2人は逃げた。

 しかし、強盗は逃げる者から仕留めようと思ったのか、幸いにも腰を抜かした甥を放置して二人を追いかけることを優先した。


 多少広いとはいえ、所詮は一軒家。ぐるぐる家の中を回るうちにすぐに追い詰められた。

「カネ!出せ!」
 カタコトの日本語で繰り返す強盗に、作家の甥は相変わらず玄関で腰が抜けていたが、残り二人のうち一人は剣道経験者で肝が座っていた。
 先程逃げ回りながら拾った模造刀を無言で抜いた後、「キィエエエイ!」と気合の声を出して渾身の小手を打ち、強盗の手から刃物を叩き落とした。

 残ったもう一人は警察を呼び、強盗はあっけなく逮捕された。

10

 強盗逮捕後は特に何もなかった。作家は、甥を助けてくれたサークル学生に感謝して、家は何年かサークルの持ち物として賑やかに使われた。
 しかし、老朽化した建物に若い大学生が何人もいればどうなるか。

 やがて壁が壊れ、床が抜けた段階で、さすがの作家も諦めて解体することにした。

 幸い、それだけの蓄えはあった。
 甥も卒業しているため、もうこの地に建物は不要だった。

 実に建築から97年。

 その家は取り壊された。
 ついでに、崩れかかっていた石垣も崩し、もとのスロープ状に戻した。

 しかし、一方で何も無くなるのは惜しいと思ったのか、あるいは墓地にすることで節税を狙ったのか。

 作家はそこに自分の墓を建て、ついでに余った土地に墓参り用に小さな東屋を建てた。
 電気も水道も、そこだけ生きている。

 そこには看板がついている。

『墓参りの方、ご自由に水を使ってください。なお、よければ横のミニトマトと柿の木にも水をやってください。実がなっていればご自由にどうぞ。』

 東屋には畑仕事用の道具と掃除道具もあり、墓地に墓参りに来た人は皆水を借りて、ある人は柿の木の葉っぱを掃除し、ある人はトマトに水をやり、季節が良ければ実をいただいた。

 その場所に家はなくなったが、柿の木と、山道を挟んだ先の大きな樹木は健在であり、町を見下ろす景観は、今も墓参り客を楽しませている。

2/12/2024, 9:59:00 AM