四椛 睡

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 我慢の多い人生です。

 と言うと、複雑な家庭環境に産まれ、望まれぬ子供ゆえに親から愛されなかったように思われてしまうかもしれませんが、そんなことはありません。
 ぼくは望まれて産まれました。望まれ過ぎたぐらいです。ぼくは両親に愛されています。家庭環境は複雑ではありません。広い庭付きの大きな屋敷で、両親に大切にされながら、たっぷりの愛情を注がれて育ちました。ひとりっ子なので愛犬のアレクサンドルが兄弟です。アレクサンドルは賢い犬です。実は二代目だったりします。初代は十年前に亡くなりました。老衰でした。

 お察しの方もいると思いますが、ぼくのお家は金持ちです。執事やメイドはいませんが、お手伝いさんがいます。コックがいます。欲しいものは何でも与えられました。二代目アレクサンドルもそう。「欲しい」と言った翌日には、ぼくの部屋にいました。
 お小遣いは与えられていません。何でも買ってもらえるので。けれど、お小遣いが欲しいと言えば貰えます。最近は電子決済が進んで、とても有り難いです。財布で持てる現金には限りがありますし、どんなに大きな財布でも、お小遣いを全額入れることは出来ませんから。
 スマホ一台で事足りるホニャララペイ、万歳。

 異性や同性に困ったこともありません。ぼくは常に、大勢の人に囲まれています。イジメは、ぼくにとって最も縁遠いものです。貧乏と同じぐらい遠いです。数え切れないほどの友人を持っています。すごく歳下から、物凄く歳上まで。交際した人の数は星の数ほどいます。初めてセックスをした年齢は伏せますが、ぼくはかなり早熟な子供だったとだけ言っておきましょう。
 星の数ほどの人間と関係を持ったのに、まだまだ沢山の人間がぼくと「付き合いたい」と言ってきます。

「満たされ過ぎて何も感じないんじゃねーの?」

 いつだったか、そんなことを言われました。
 その人は口の悪い女性で、けれど気が合う友人です。変な気遣いをしなくてよい人。一緒にいて楽な人。愉しいことが三倍愉しくなる人です。満たされ過ぎて何も感じないのではないか——それは初めて投げ掛けられた疑問であり、考えないようにしていた事柄でした。

「そんなことはないよ。寧ろ、ぼくは感じやすいタイプだ」
「確かに早漏だけど」
「そういう意味じゃなくて」
 だいたい、きみとぼくは“そういう関係”なったことないじゃないか。
「冗談だよ」と彼女は笑い、続けて「マジな話、欲とかあるの?」
「あるよ。ある。凄くある」
「ほんとに〜?」
「ほんとに〜」
「つっても、全部叶っちゃうんだろ? あれ喰いたい。これ欲しい。あそこに行きたい。仕事したくない。ずっと寝てたい。あの子と付き合いたい。セックスしたい。全部全部ぜーんぶ叶っちゃう。違うか?」
「……まあ、否定はしないよ」
「だろ? そんなさぁ、抱いた欲も秒で消化されるんじゃあ、何も感じてないのと然程変わんねーと思うね。私は」

 そうかもしれない。
 けれど、ぼくは「そうでもない」と否定する。

 だって、こんなにも感じているから。
 きみにそんな風に思われて哀しくて、淋しくて、傷ついている。同時に、とても欲しいと思っている。彼女が欲しい。凄く凄く欲しい。砂漠で求める水のように。心から、身体の奥底から欲している。欲しいのに、けれど絶対、手に入らない。

 望まれ過ぎて産まれ、両親からの愛を注がれ続けるぼくは、真に手に入れたいものを得られない。満足できない。解消されない欲望が積もりに積もって凝縮されていく。渇望している。昔も今も。今現在も。
 彼女の白い首筋に目を遣る。溢れそうになる涎をアレクサンドルみたいに垂らさないよう、静かに嚥下する。腹の底で沸々と滾る熱を少しでも鎮めるために。
 更に深い場所へ沈めるように。

3/2/2024, 9:06:00 AM