子どもの頃は、母の遺した児童文学全集を読んでいた。棚いっぱいにあるそれを読み終えたとき、初めてユキと図書館に行って、好きな本を読んだらいいと言われたのだ。ほとんど惰性と母への興味で読んでいた本が、この世にはこんなにもあるのだと知って、眩暈がした。
それから十年近く経って、いまだに本はおれの一番の娯楽である。
トートバッグに借りた本を詰め込むと、持ち手が軋んだ音がかすかに聞こえた。前も酷使して壊した。そろそろ三代目のカバンを準備しておいた方がいいかもしれない。リュックにしようかな、両手空くし。
コートを着てマフラーを巻いて、トートバッグを持って扉を二枚潜る。来たときより雲が出ている。もしかしたら、今度こそ雪が降るかもしれない。
「あの」
一歩踏み出したところで後ろから声をかけられた。振り返ると、真っ赤なコートに黒い髪。さっきの人だ。
「ごめんなさい、さっきは」
やや吃りながら、小さな声でそう言ったのが聞こえた。謝られる心当たりがなくて戸惑ってしまう。黙っていると、その人はさっきの青い手袋をつけた手で髪を撫で付けながら、目をうろうろと彷徨わせた。
「あの、学校」
「はい?」
「学校、行ってないんですか。平日ですけど」
「はあ……」唐突だ。
休みじゃない日を平日というのは知識として知っているけど、それでいうならおれは休日しかない。学習は、『人生においてこれくらい知っておいた方がいいこと』と『本で得た知識』くらいのものだ。労働はしていないし……。考えていたら昨日のことが頭をよぎり、すこし心が軋む感じがした。
「行ってません、ね」
「私もなんです」
少し嬉しそうな高い声。言ってから、何か失敗をしたような顔で口ごもって、目を逸らして、それから再びこちらを見据えて、口を開いた。
「一緒に帰りませんか」
……断る理由も特になかった。わずかに、さっきこの人から離れるときに感じたものが背筋を走ったけれど、わざわざ相手を拒絶するような、それほどのものでもない気がした。
その人はアオイと名乗った。電車で四つ離れた駅に住んでいて、ここの最寄駅にある女子高に通っていて、でも最近は通えていなくて、家に帰るのも気まずくて図書館にいるのだ、というようなことを喋りながら、おれの隣を歩いた。話を聞く中で、どうにもアオイはおれを何かしらの仲間だと思っているようだ、ということが感じられた。まあ確かに、おれも学校に行ってないけれど。
まっすぐ家に帰るのは気が引けて、使ったこともない駅に向かって歩く。たぶんバスかなにかに乗るのが正解なんだろうけど、バスの乗り方がよくわからない。アオイは気にした様子もなくついてきた。
「家こっちなんですか」
「いいえ」
「あ、そうなんですか」
「駅まで送ります」
伝えると、心なしか嬉しそうな「ありがとうございます」が返ってきた。なんでこんなに居心地が悪いんだろうと考えて、単純に、ユキとルビンさん以外の人とこうやって意思疎通をはかることが殆どなかったからだと気づく。やり方がわからない。
「シンヤさんは……なんで行ってないんですか、学校」
「なんで、というか……」
特にその発想に至らなかったからなのだが。過去、馬鹿正直に(親がいないとかユキは親戚じゃないとか家事はおれがやっているとか、そういうことを)話したことをユキに咎められたことがあるので、つい慎重になってしまう。親はとりあえずいた方がいいのだ、会話の中では。
「親が、ちょっと」
濁すのも手だ、とルビンさんが言っていたのを実行してみる。ぱっとアオイが顔を上げた。
「あ、うちも」
「はい?」
「うちも親、やばいんです」
そう言ったアオイは、表情に反して心底嬉しそうだ。まっすぐな道を歩きながら、なんだか迷子になっていくような気分で、でもそれはバレないように神妙に頷く。
「うちは、過保護で。でもあんまり私のこと気にしてないっていうか」
「はい」
「誕生日プレゼントだって、なんか名前がアオイだからって青い手袋だし。娘の好きな色くらい覚えません?」
「そうですね」
ユキはおれの好きな色を知っているだろうか。……そもそもおれの好きな色ってなんだろうか。
「そんな親だから、学校のことも相談できなくて」
「大変ですね」
「……うん。しかも、私が学校に行ってないの、気づいてないんだよね。ほんと、何も分かってない」
大変そうだな、と思った。それくらいしかできない。
多分この人は色々傷ついていて、助けを求めたくても求められない、みたいなことなんだろう。困ったな、濁さずおれは親いませんって言っちゃえばよかった。相槌も難しい。
「親って、なんもわかってないですよね」
嘘はついてない。お母さんはおれの現状なんて何もわからない。もう骨だから。
「そうなんです!」
そうして嬉しそうにされるたびに居心地が悪くなっていくことに、ここでやっと気がついて、ため息が出た。難しい。
それから駅に着くまでの長い道のりを、アオイの話を聞いて過ごした。日常の特に親に関する細かな愚痴、学校のクラスメイトが話しかけてくれないこと、先生が助けてくれないこと、勉強が難しいけど平均より上は取れているということ、エトセトラエトセトラ。見たことのない学校の話は興味深かったが、それ以上のことはあまり理解もできず、でもそれがバレるのもなんだか嫌で、分かったようなふりをして過ごす。
なんとか駅が見えてきたあたりで、アオイは何回目かの神妙な顔をした。
「あの、シンヤさん。よければ、またこうやってお話ししてくれませんか」
「え、なんでですか」
「だって楽しかったから」
もっと仲良くなりたいです。そう言われて、はあ、まあ、そうですか、と頷いた。仲良くなりたいと言われたら拒絶するのは失礼だし。仲良くなるのが悪いことだと書いた本を、おれは読んだことがない。
「いいですよ、仲良くなりましょう」
仲良くなるのは良いことだ、多分。その証拠に、目の前の人間はにっこり微笑んだ。
1/15/2026, 4:54:19 PM