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開けた簀子で一人酒を晩酌していた阿倍仲麻呂は、外の景色に目を奪われた。すぐそばで聞こえる喧騒が、一瞬遠く聞こえた。
月と山。ただそれだけなのに、どうしようもなく心が震えた。ここは、どこだったか。私はもう、日本に帰ってきたのか。
「朝衡!」
はっと現実に呼び戻される。振り返ると、王維が赤ら顔でにこにこと笑って隣に座るよう手招きしていた。
立ち上がって隣に座ると、おちょこに酒を注がれる。
「君が生きていてくれて本当に良かった!」
ふ、と仲麻呂は口角を上げる。友の存在は素直に嬉しい。
「王維は大げさなこった。お前が死んだって聞いた後に俺と会った途端ぼろぼろ泣きやがって。餓鬼くさいったらねえ」
「そういうあなたも追悼の詩をかいていたじゃあないですか」
「ふんっ」
「相変わらず李白さんは偏屈ジジイですねえ」
仲麻呂はからからと笑う。
「あれはどちらの詩も傑作だった」
本当に、心の篭った素敵な詩だった。感動した。
きっと自分は、この唐の国で寿命を迎えるのだろう。
寂しいが、そうそう体験できないことがたくさんできた。だから、良い。月と山を見て浮かんだあの想いは、自分と故郷だけが知っていて良い秘密としよう。
いつか、いつか、日本へ。そっと月に願った。

天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも

5/26/2023, 11:55:51 AM