夕暮電柱

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元気かな


送り便箋


 揺れ動く電車の中、熟年の男性が吊り革を握り立ち、矢継ぎ早に流れる景色をただぼんやりと眺めている。
目的地の駅まではまだ遠く、先ほど停車した駅のアナウンスはついさっき鳴ったばかりだ。
祝日とはいえ平日と見紛う程の人の波に押し流され、さながら大波に揉まれたのは数分前。未だ放心状態の男性は目の前の空席にすら座れないほどに疲弊していた。

 「年かな」

 誰にも言うでもない独り言が思考から声に漏れる。
続いてため息を吐いてはようやく青い座席に座り込むと、徐に手紙を懐から取り出して読み始めた。

“お元気ですか?“

 手紙の冒頭はこちらの元気を伺う一文から始まる。
送られてきた全ての手紙の始まりは一通の例外なく統一されていて、送り主からの気遣いが伺い知れる。
送り主、もといこれは男性の妻からの手紙で遠距離恋愛していた頃の一つだ。

 三枚綴りの手紙を繊細な物を扱う様に優しくめくる、紙は色褪せても想いは褪せる事なく、そんな事もあったなと時折り軽く頷いて読み進める。親戚の話、近所の話、自分との逢瀬の思い出、また逢いたい、元気でいて欲しい。終盤は彼女の感情が溢れて冒頭と同じ言葉になる。

 それでも妻からの手紙に返事を書いた事はない、仕事の忙しさや字を書くのが苦手だからだ。代わりに電話か帰省で済ませてきたのだが、やはり後悔は拭えない。
こうして形にして想いを伝えておくべきだったと。

 あの時とはまた違う胸の痛みを感じながらも、男性は読み終えた手紙を畳もうとはせず、ただ上を向き、目を瞑って湧き上がる熱を頬に流さぬ様に堪えている。

 深く深呼吸する、何度も、何度も。
現実に引き戻したのは目的地を知らせるアナウンス。
彼女、もとい妻が眠る最寄り駅。

 古びた便箋を丁寧に畳んで懐へ仕舞い立ち上がる。
そうして今度は真新しい白い封筒を手にした。
下手でも苦手でも君に伝えたい、これは僕から君への返事の便り。初めて書くから最初だけ、君の書き方を真似するよ。

 
“向こうでも君は元気してるかな?“


 完全に停車した電車から一人の熟年男性が、前を向いて歩き出していた。


終わり

4/10/2025, 3:14:45 PM