意味がないこと
楽しい。
目の前で私の可愛い子がアップルパイを作っている。「アメリカ風」なのだそうで、生の林檎に、シナモンとナツメグをたっぷり。いい香りが漂っている。
私は手を綺麗に洗って、パイシートをつつき、レモンを絞り、また手を洗い、スパイスを振りかけた。今は「パイを完成させる彼を見守る」という任務を与えられている。
何か手伝う、そう口にするたびに彼が私の口元に林檎のかけらを運んでくるので、雛鳥よろしく林檎を食べている。パイの分とは別に取り分けてあるから、つまり最低でもあと七回、手ずから食べさせてもらえる訳である。最高の休日だ。
「無意味って最高だね」
「無意味?」
「私たち、いつもはご大層な仕事をしてることになってるじゃない。日常生活なんて何の意味もない、どうでもいいみたいな感じ。でもやっぱり、こういうことって楽しいんだなって思って」
彼は微笑んで、
「こんな日常を誰もが過ごせるように、仕事も頑張りましょう」
と返してきた。真面目である。殺人課の刑事としては満点の回答だ。
パイをオーブンに入れてしばらく経った。
「あと二十分くらいで完成です」
林檎はとっくになくなり、今はのんびりお茶を飲んでいる。
「大袈裟じゃなく、人間の生きる意味が分かった」
「生きる意味」
「アップルパイとか、何か人の作ったものを美味しいと思えるってことだと思う」
缶詰(缶から直接食べる)とウイスキーが主食だった頃が夢のようである。剥いた林檎がこれだけ美味しいなら、焼きたてのパイを食べたら気を失うかもしれない。
彼がキョトンとしているので、説明しようとした時に電話が鳴った。
「はい…はい、すぐに急行します」
休日はおしまい。二人でせっせと身支度を整える。悲しい。
「…パイはどうなるの」
「ぎりぎりまで焼いて、火を落とします。帰れたら温めて食べましょう」
「人生の意味がなくなった」
「何とか帰れるように頑張りましょう」
優しい。
「何か二人ともいい匂いしますね。もしかしてデート中でしたか?」
そう訊かれた瞬間、彼は私の心拍数と体温の変化を感じ取ったらしい。すっと腰に手を回してくれて、「アップルパイが焼き上がる直前に呼び出しを受けましたので」と言った。
疲れた。
損傷の激しい遺体だったので、嗅覚が完全に麻痺している。それでも、家には帰れた。
二人で服を全部脱ぎ捨ててシャワーを浴びた。洗濯機が回っている。
「何か飲みますか」
「…パイが食べたい」
「身体にはよくない気もしますが」
「一見有害なことも、時には大事だと思うんだよ」
彼はパイの安全性を確認した上で、しっかりと温めてくれた。スパイスとバターの香りに、シャクシャクした林檎の食感(生から焼くかららしい)。茶葉から淹れた紅茶。美味しい。
「お口に合いますか?」
「すごく美味しい。私幸せ」
「…無意味っていいものですね」
「うん、こういうのが一番」
「また何か一緒に作りましょう」
ゆっくりお茶を飲んで、深夜にベッドに入った。彼の隣は世界一安心できて、安全でもある最高の場所だ。明日の朝は、パイの残りを温めて食べる。
幸せだ。
11/10/2024, 7:37:07 AM