【愛言葉】
「ふぇぇぇん…」
これは記憶?それとも夢?
少なくとも目の前で泣いている、長い前髪で両目を隠した彼女には見覚えがある。
確か、名前は…
「…またここにいるのか、深海。」
名前を思い出そうとしていたその時、自分によく似た人間が、”深海”と呼んで彼女を見下ろす。
《深海(ふかみ) すい》…彼女の、名前。
恐らく外は雨が降っていたのだろう、泥で汚れたあの野球部のユニフォームを着ている人間が…自分なのか。生憎名前が思い出せない。
「っ、ぐすっ…あ、荒川くん…?」
…タイミングがいいな。そうだ…自分は…《荒川(あらかわ) 塁(るい)》という名前だった。
”荒川”は膝をつき、”深海”と目線を合わせる。
「タオルと…ジャージ、やる。タオルは新品だし、ジャージは洗濯した。汗の臭いはしないと思う。」
「あ、ありがとう…ごめんね、雨に降られちゃって…」
よく見るとセーラー服の”深海”はびしょ濡れだ。
”荒川”はタオルとジャージを渡し、”深海”はぎこちない笑みを浮かべて受け取る。
「今日は晴れ。」
…え?
「あはは…今日ははずれだったね…」
透ける体で屋上の扉をすり抜け、空を見た。
晴れている。
なのに、何故彼女は濡れている?
何故自分は泥まみれでいる?
「またトイレ?」
「…うん。いつものだから…平気だよ…」
「慣れてはいけないといつも言ってる。」
「ご、ごめん…でも、荒川くんのその泥も…」
「…雨が降ってた」
「あはは…今日はお互い災難だね…」
「慣れてる。」
「慣れちゃダメって荒川くんがいつも言ってるよ?」
「すまん」
…思い出した。彼女も自分も、虐められていた。
クラスに馴染めない彼女がトイレに逃げると、高確率で上から水とバケツが降ってくる。
チームに馴染めない自分が自主練に行くと、高確率で地面の上に転がされる。
そんな日々を、お互い”雨が降ってる”と言って誤魔化していた。
大体ハズレだった気がするけれど。
「…明日は晴れるといいなぁ…」
「晴らせてみせる。」
「はは…ありがとう。…私も、晴らせてみせるから。」
「ありがとう」
”晴れるといいな”
”晴らせてみせる”
…お互いを繋いでいた、支えていた、合言葉のようなもの。
止まない雨をいつか止めさせる為に、”荒川”と”深海”が使っていた言葉。
「そ、そういえば…荒川くんは、進路決めた?」
彼女の手には白紙の進路希望調査票が握られていた。
それに対して、おそらく自分は…
「プロ野球選手。」
…まともにチームメイトと会話できないのに。
「変わってなかった…よかったぁ…
…よし!私も決めた…!」
彼女は鉛筆を取り出し、夢を書く。
「病気を治して、絶対に潜水士になってみせる…!」
…喘息を完治させる方法は今のところ無いのに。
「えへへ…お互い、変わってないね…」
「あぁ。叶えてみせる。」
「わ、私も!絶対叶える…!」
「「あなたに虹が架かりますように」」
…恥ずかしいこと言ってる。
「えへへ…綺麗に被ったね…」
「いつも言ってるから。」
…下校を促すチャイムが流れる。
いつもこんなに遅かったのか。
「わわ…!早く帰らないと…」
「もうそんな時間か」
「え、えと…ジャージとタオル、洗って返すね…!」
「……」
「あ、荒川くん…?」
…自分なのに、殴りたくなってきた。
我ながら最低だ。
「ん。また明日」
「…?う、うん!また明日ね…!」
________
「…ぃ、お…い……おーい…”ルイ”くん?」
「ん…?」
いつの間にか眠っていたらしい。
やはりあの出来事は夢か。
潜水服を着て、サメのようなヒレと尻尾が生えた”ディーパ”が傘を差し出し、こっちを覗き込む。
「やっと起きた…宿にいないからいつもの木の所かなって思って…ほら、あ、雨降ってきたし、一緒に帰ろ…?」
「ん。ありがとう」
”ディーパ”から傘を受け取り、並んで歩く。
「ディーパ。」
「どうしたの?ルイくん」
「…虹がかかるといいね」
彼女はディーパなのに。
「…?そうだね。きっと綺麗に架かるよ…!」
…明日は晴れるといいな。
そう思いながら2人で宿に帰った。
10/26/2024, 12:53:46 PM