もう何も聞こえぬ。
舞台の上では。
わたしの役者人生は終わってしまったのだ。
わたしには演じることでしか生きていけぬと言うのに。
それすらも出来ないようになってしまった。
事の発端は1つのあらぬ記事。
それを信じた観客からの投げられたものが頭に当たり倒れた。
傷はそこまで大事に至らなかったが、なぜか舞台に上がると今までかぼちゃやジャガイモに見えていた観客にはっきりと目があり口がある。
そう認識すると何かみんなが野次を入れているように聞こえそれからそれから舞台の音が遠くなり歌えなくなった。
舞台上で舞えない歌えない役者など存在の意味がない。
生きる意味がないのだ。
それからは茫然自失に過ごす日々。
周りからは狂ったと思われたろう。
みんなに見放されても仕方がない。
なのにどんなにひどい振る舞いをしようとも振り払えないひとが居る。
わたしの歌に惚れたと会ったその日から毎日のように一緒に過ごすようになった友。
舞台上で演じるわたしの舞い歌う仮初の女がよいと言う。
毎日のように劇場に通って来ては夜遅くまで他愛もない事で共に過ごす。
そんな彼はおかしくなってしまったわたしの世話を普通なら絶対やらないだろう事まで甲斐甲斐しく世話を焼く。
自分の妻を差し置いて泊まり込みでわたしを見張っている。
「わたしは大丈夫だ。早く奥さんのところに帰ってやったらどうだ」
「あいつは1人でも大丈夫だ。お前はそんな心配もせず早く治ることに専念するんだ」
「わたしはもう演じることが出来ないよ。聞こえないんだ」
「今は会話出来てるだろう」
わたしの足を丁寧にタオルで拭き取ってくれながら優しく話しかけてくる。
「普通に日常なら大丈夫なんだ。でも舞台はダメだ。音が聞こえなくなるんだ」
「薬は飲んでいるのか?」
「そんなもの効きやしない」
「…他の商売でもしてみるか?俺が金は出してやる」
「ダメだよ」
「やってみたら思わぬ才能があるかもしれないぞ」
「わたしは芸をする事しか出来ないんだ」
何も出来ないんだよ旦那。
向けられる優しい目を見続けることがつらくて俯くしかない。
「それなら、気長にやっていくしかないか」
そっと頬に手を当てられたかと思うとそのまま目の前の彼と目線が合わされる。
「俺もおまえの演技好きだしなぁ」
いつもと変わらぬ安心できる笑顔で優しく言われて泣きたくなる。
「いつか俺の前で歌ってくれ。お前1人ぐらい余裕で養える」
頭をくしゃりと撫でられたその手が離れていく。
この世界はこんなに歪んで見えただろうか。
視界が定まらないよ。
🍁(この世界は)
1/16/2026, 9:43:34 AM