汀月透子

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〈明日への光〉

 気がつけば、仕事のことしか考えていない日々を送っていた。

 朝起きて、満員電車に揺られ、数字と締切に追われ、夜遅くに帰る。
 学生の頃に思い描いていた将来像とは、だいぶ違う。目指してきた仕事でもなければ、胸を張れる専門性があるわけでもない。
 これといって打ち込める趣味もなく、ただ惰性で生きている。そんな感覚が、ここ数年、ずっと胸の奥に居座っていた。

 SNSを開くのも、いつからか億劫になった。
 実名で集うそこは誰かの昇進報告、海外旅行、結婚式の写真がこれでもかと映し出される。
 画面いっぱいに広がるまぶしさに、自分の輪郭が溶けていく気がして、そっとアプリを閉じる。
 それが正解なのかどうかも、もう考えなくなっていた。

 週末の夜。
 疲れているはずなのに眠れず、動画サイトをぼんやり眺めていた。
 ミュージックビデオがおすすめに流れてくる。 それは、夜の街をただ歩き続ける映像だった。
 コロナ禍のときに撮影されたというそれは、人の影が全くない。ただ、ネオンや街の明かりが煌々と光る中を歩く映像が淡々と続く。なぜか目が離せず、気づけば一本、最後まで見ていた。

──外、出てみるか。

 勢いとも呼べない衝動に背中を押され、僕は上着を羽織って家を出た。
 国道沿いを、目的地もなく歩く。トラックが風を切って追い越していく。コンビニの明かりが、夜に浮かぶ小さな島のように見えた。

 しばらく歩くと、高層ビルが並ぶエリアに出た。コンビニで買ったコーヒーを片手に休憩する。空の色が、わずかに変わり始めている。
 黒に近かった夜が、少しずつ薄まり、青と白の境目がにじんでいく。

 その頃から、街が動き出す気配がした。
 コンビニの裏口に止まる配送トラック。ゴミ収集車の低いエンジン音。制服姿で自転車をこぐ人。
 誰も僕のことなど知らないし、僕も彼らの名前を知らない。それでも、この街は確かに、無数の「名もなき誰か」の手で回っている。

 ターミナル駅には、この街で夜を過ごした人たちが家路につこうとしている。
 始発までまだ時間がある。駅上のコンコースに上がると、ちょうど朝日が昇るところだった。
 東に伸びる線路のの向こう、ビルの狭間からゆっくりと朝の光が射してくる。
 胸の奥に、言葉にならない想いが溜まっていく。
 昨日までと同じはずの街なのに、少しだけ違って見えた。

 始発に乗って、家の最寄り駅に戻った。
 たまに買う駅前のパン屋が、もうシャッターを開けている。こんな時間から営業していたなんて、知らなかった。
 焼き立ての香りに誘われ、何も考えずにパンを買う。

「おはようございます、早いですね」
 店員さんに声をかけられ、形ばかりの挨拶をする。

 紙袋を提げて、ゆっくり歩く。パンの袋が、手の中でかすかに温かい。
 その感触を確かめるように、歩き続ける。

 鬱々と考えていたことに答えはまだ見えないし、何かが劇的に変わったわけでもない。
 それでも、名も知らぬ人たちと同じ朝の空気を吸い、同じ街の中で足を前に出している。

 特別な夢がなくても胸を張れる肩書きがなくても、こうして朝を迎えている。
 それだけで、今日を生きる理由にはなるのかもしれない。

 明日への光は、もう始まっている。

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山下達郎氏「蒼氓」のMVが好きです。曲自体は四半世紀前なんですが(ゲームの主題歌でもつかわれましたが)、あの映像と合わせたのはお見事でした。

ぼーっと見てると、カップリング曲が「おーどーろー キッス♪」と始まってしまって、余韻もなんも無くなるので注意が必要です……

12/16/2025, 7:53:13 AM