汀月透子

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〈特別な夜〉

 金曜の夕方。デスクの時計が六時を指した瞬間、私は立ち上がった。パソコンをシャットダウンし、ロッカーから小さなキャリーバッグを引っ張り出す。
 今日は定時で上がると決めていた。いや、正確には決めさせてもらった。四十八歳にして初めて、こんな風に自分を優先させている。

 駅への道を急ぎながら、スマホを確認する。なるみからのメッセージ。

「あと三十分で終わる!先に改札入っててー」

 彼女とは高校時代からの付き合いだ。子育てに追われていた頃は年に一度会えるかどうかだったけれど、ここ数年、また頻繁に連絡を取り合うようになった。

 今回の旅は、彼女の提案だった。
「今度のライブ、朝一の新幹線じゃなくて、前乗りしない?
 このツアーなら新幹線代にちょっとプラスで泊まれるよ。夜通しおしゃべりしようよ」

 二人ともファンのアーティストが久しぶりにライブを行う。東京のチケットは取れなかったけど、いっそのこと遠征しちゃおう!となった。

 長男は東京で一人暮らし、次男は大学の友人と飲み会。
 夫には「明日の夜には帰るから」とメールを入れた。返信は「楽しんでおいで」の一言。こんな身軽さは、久しぶりだ。

 東京駅に着くと、新幹線の改札に入る前に駅ナカの店に立ち寄った。
 テイクアウトできる寿司屋で、少し迷って握りを買う。いつもなら「高い」と思って手に取らない価格帯のお寿司。でも今日は、いい。今夜は自分のためだけのご馳走を用意したかった。
 それから酒屋で東京駅限定の缶ビールを二本選ぶ。

 待ち合わせ場所のコーヒースタンドで、カフェラテを注文していると、「彩也子ー!」と声がした。
 振り返ると、なるみが小走りで近づいてくる。片手には紙袋。少し息を切らしながら、「忙しかったけど集中して終わらせた!」と笑顔で言った。

「デパ地下寄ってきちゃった」と、袋の中身を少し見せてくれる。
 総菜とおつまみがぎっしり入っている。「さすが」と私は笑った。

「お疲れさま。新幹線、行こう」

 改札を通り、ホームへ。指定席はグリーン車だ。
 なるみが「たまには贅沢しようよ」と言って取ってくれた。確かに、たまには、いい。

 車内に入ると、それなりに乗客はいるけれど、皆静かだ。シートに身を沈めると、ふわりと体が包まれる。なるみと顔を見合わせて、座り心地の良さにふふっと小さく笑い合った。

 新幹線が動き出し、ささやかな宴の始まりだ。私は缶ビールを、なるみも自分のバッグから缶チューハイを出す。

「乾杯」

 小声で言い合って、缶を軽く合わせる。プシュッという音が、やけに心地よかった。一口飲むと、炭酸がのどを通り抜けて、一日の疲れが溶けていくようだった。

 寿司のパックを開けて、なるみと半分ずつ分ける。彼女はデパ地下の紙袋からサラダと何種類かのおつまみを出した。
「これも食べて」と差し出されたのは、私の好きなチーズだった。長い付き合いだから、好みもわかってくれている。
 車内では最低限の会話だけ。それができる友人との旅は、本当に楽しい。

「向こうついたらたこ焼き食べたい」となるみが言って、スマホで遅くまでやってるたこ焼き屋を調べ始めた。
「ここ、夜中の一時まで開いてるって」
「いいね。ホテル行く前、お夜食に買っていこうよ」
「塩味もあるんだって」

 そんな会話をしているうちに、言葉少なくなったなるみの動きがゆっくりになってくる。見ると、シートに頭を預けて、すっかり眠っている。
 よほど疲れていたのだろう。私は小さく微笑んで、彼女の膝に自分のストールをかけた。

 二本目のビールを開ける。今度はゆっくりと、一人で味わう。
 窓の外では、街の灯りが次々と流れていく。オレンジ色の街灯、ビルの窓明かり、車のヘッドライト。暗闇の中で輝く光の粒たちが、まるで星のように見えた。

 ふと、「夜間飛行」という曲を思い出す。翼広げて舞い上がる。今の私は、地上を走る夜間飛行だ。

 缶を傾けながら、心の中で呟いた。

──あ。今、飛べてる。

 家族のこと、仕事のこと、日々の雑事。全部どこか遠くに置いて、身軽に飛び立てた気分。
 今この瞬間、私はただ私でいられる。四十八年生きてきて、こんな感覚は久しぶりだった。

 車内アナウンスが次の停車駅を告げる。なるみが小さく寝返りを打った。もうすぐ、大阪に着く。
 ホテルの近くでたこ焼きを買って、お酒を買って。部屋で、夜更けまでおしゃべりをするのだろう。それも楽しみだ。

 でも今は、この瞬間を味わっていたい。つかの間の解放、特別な夜。

 窓に映る自分の顔を見つめる。私と、なるみの寝顔と。
 二人とも疲れた中年だけど、気持ちだけは学生時代に戻っているはずだ。

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少し前までは、びゅうなどのフリープランを使うと往復新幹線代に宿がおまけでついてくるぐらいの価格でした。今は宿も高騰して、あまりお得感がないですね……

大体、前乗りの時は新幹線内で酒盛りです。グランスタで酒とつまみとデザート()買って。
車内では眠らずに外を眺めている時間が幸せですね。

1/22/2026, 6:21:27 AM