俺が恋をした人は、俺のために自分の恋心を隠していた。
宮島歩さん---以前勤務していた総合病院の看護師だ。
俺は外科医として新卒で入社した彼女と出逢い、彼女は俺のことをそっと慕ってくれた。俺は既婚者だから彼女は自分の気持ちを知られないよう、俺に褒められても俯いて溢れ出る笑みも嬉しさも隠していた。ただ俺の役に立ちたいと看護を頑張ってくれて、その献身的で控えめな愛情に、俺は宮島さんに特別な感情を抱いてしまった。
俺には妻がいる。大切にすると誓った想いも宮島さんへの想いと並行していて、俺は宮島さんへの気持ちを隠し通した。そこに迷いなんてなかった。
小児科医の佐々木先生。彼もまた宮島さんに恋をしていて、彼は未婚なのもあって宮島さんへの気持ちをオープンにしていた。
外科クリニックの開業に伴い、宮島さんから離れた方が良いと引き抜かなかった俺と、小児科クリニックの開業に伴い、宮島さんを育てたいと引き抜こうとした彼。佐々木先生の気持ちを知って引き抜きを断った宮島さん。それは彼へついていくことで彼に期待させないようにという宮島さんの優しさからで、俺も佐々木先生も宮島さんに益々想いを切なく募らせた。
宮島さん。
君は控えめに俺を慕ってくれたね。俺に褒められるだけで満足なんだと、俯いて照れて赤くなる耳や頬を見て俺はわかっていたよ。
君はただそれだけで幸せそうだったから、俺も宮島さんが可愛いと口を滑らさずに過ごせたんだ。口にはしないけれど、宮島さんと両想いだと知っているだけで俺は幸せだった。
でもさ。
宮島さんには、好きな人の前で堂々と笑顔になれる恋愛が合う。
俺が病院を辞める前に宮島さんと二人きり、ナースステーションの奥の休憩室でコーヒーを飲んだ日のことは今でも覚えている。
佐々木先生のクリニックの誘いを断ったことを宮島さんの口から直接聞いて、それでも俺は宮島さんにもう一度考え直すように伝えた。
君がプレイルームで自閉症の男の子の隣に柔らかく微笑んで寄り添っていたことを知っている。
子どもの状態の変化に気づいて、佐々木先生に報告している姿も。
佐々木先生と病室に向かう君の真剣な、だけどどこかホッとしている横顔も。
君の看護はいつも的確だった。
ドレーンの挿入介助は、俺の動きを先読みして手を出せばそこに器材が渡されたし、患者の様子も的確なタイミングで報告してくれた。君の看護は、処置の介助のたびにアップデートされた。
「浅尾先生は、私は外科よりも小児科ナースの方が合っていると思いますか?」
悲しみに飲み込まれないように、君は気丈に口にした。
「そうだね。宮島さんは子どもとの接し方が上手だから」
俺の仕事の役に立ちたいと、外科看護を誰よりも頑張っていたことを知っているのは俺なのに。
2年半も一緒に仕事をしてきて、俺が君と仕事をしていちばん楽しかったのに、助けられたのに、君の努力よりも始まったばかりの小児看護を勧めた。
本当は君と一緒に働きたい。
君が望むなら、もっと外科医療を教えて、君の看護を引き上げたい。
ターミナル期の患者に心を痛めて、それでも医療チームの調整役以上に心を砕き、俺や、看護チームや、薬剤師、栄養士、ソーシャルワーカーと協力して患者家族と寄り添う努力をしている姿を知っている。
宮島さんの芯の強さと内面外見共に美しく眩しくて、俺は宮島さんと離れる決断をしたのに、まだ、秘密にしている気持ちを伝えたくなってしまう。
俺も宮島さんと同じ気持ちだよ…と手を取って、強く引き寄せたくなってしまう。
俺は君を幸せにできない。
結婚している俺が宮島さんのことを好きなことを知ってなお、それを許せる佐々木先生なら君を幸せにできる。
既婚の俺のことを好きな宮島さんごと、愛する優しさと強さを併せ持った佐々木先生なら、きっと宮島さんを幸せにしてくれる。
「何かあっても、佐々木先生が君を助けてくれるよ。佐々木先生は宮島さんがお気に入りだから」
宮島さんは顔を強張らせて俯いた。
ただ俺を好きで良かっただけの宮島さんの想いすら、もう終わりだよ、と俺が暗に終止符を打つ。
最愛の人を哀しく震わせている。
訪れた沈黙を切り裂くように医療用のスマホが鳴り、看護師から患者の状態の変化についての報告を受ける。
宮島さんは俺のマグカップを洗うから行ってください、と告げた。
悲しみを心の内に閉まって。
傷つけてごめん。
本当は君のことが好き。
好きになってくれてありがとう。
何ひとつ言えない言葉を抱えて泣きたくなる自分の唇を強く噛み締め、外科医として患者の元へ急ぐ。
今の俺には、それしかできない。
仕事を終え、クリニックの鍵をかける。
ダウンライトがクリニックの外壁を浮かび上がらせる。
いつか宮島さんのことは良い思い出だと微笑む日が来るのだろうか。
募る想いはまだ……
secret love
9/4/2025, 6:09:06 AM