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窓から見える景色

「あら」
 母がカーテンを開けると、灰色の四角が見えた。
「あ、すみません。そこはいつも閉めてまして…」
「景色を観に来たんじゃないんだから、いいんですよ」
 母は何か言いたげだったが、私は話を打ち切った。どのみちそんなことをしている暇はない。それは、母もよく分かっている。
「せっかくだから開けといて」
「圧迫感ない? 向こうの壁に手が届きそう」
「それがいいんだよ。ヤモリとか来たら見えるでしょ」
 何とも言えない顔をされた。母はヤモリが苦手だ。生家の雨戸を開けると時々ボタッと落ちて来る、という恐怖が染みついているらしい。だが、実は私は爬虫類が好きである。
「あ、窓は開けられないようになっているので、入ってはこないですよ」
 ここで働いている人が言うなら本当だろう。
「向かいに窓があるわけじゃないし、開けといて」あったらお互い丸見えである。

 母がてきぱきと荷解きをしてくれると、やることがなくなった。持って来た本をサイドテーブルに積んでもらい、その横にノートとペンを置いてもらう。
「大丈夫? 他にほしいものない?」
「大丈夫。死ぬまでに『百年の孤独』の矛盾を全部洗い出すのが夢だったし、これで当分過ごせる」
 母は、何とも言えない顔をした。

 それきり、本はまったく読んでいない。

 ある晩、窓に目をやった。
 外にはマグリットの絵のように真っ青な空が広がり、白い雲が浮かんでいた。
 これが「明晰夢」とかいう奴かと思い、そのまま寝た。

 またある晩、窓に目をやった。
 外は柔らかな青に包まれ、無数のクラゲらしきものが漂っていた。
 どうせなら鯉か金魚にしてほしい。そう思って、そのまま寝た。

 やはり、本はまったく読んでいない。
 というより、ベッドから起き上がることすらできない。
 母には「無理に毎日来なくていいから、私が帰った時用に断捨離でもしててよ」と頼んだ。何とも言えない顔をされたが、来るのを一日おきにしてもらった。母の時間は、私と同じく有限なのだ。

 そしてその晩、窓の向こうには窓があった。暖かそうな光と、どこかで見たような内装。子供の頃の居間と同じ家具が並んでいる。こちらに背を向けてソファに座っていたのは、父だった。
 やるべきことは三つ。
 何とかしてこちら側の窓を開ける。
 向こうに気づいてもらう。
 向こうの窓を開けてもらう。
 これが見えているうちに終わらせなければ。
 私が窓を気にしているのは看護師さんたちにばれている。私が予想より持ちこたえているので、おそらく飛び降りを心配しているのだ。本来この部屋に入る人は、そこまで体力がない。

 なるべく静かに窓を破壊する方法を考えていると、微かに軋むような音がした。
 向かいの窓が内側に開かれ、父がこちらを見ている。真似をして引っ張ると何とも簡単に開き、危うく尻もちをつくところだった。
「そっちに行ってもいい?」
 父はもうずっと前、生きていた頃と同じようにうなずいてくれた。

9/27/2024, 1:00:39 AM