→短編・インク瓶
何年ぶりの帰郷だろう?
仕事から離れたのは、いつが最後だったのか思い出せない。
久しぶりの地元駅。久しぶりの商店街。久しぶりの帰路。久しぶりの実家。久しぶりの自室。
片付けられた部屋のシンとした空気が他人の部屋のようによそよそしい。置いてある小物や家具で自分の部屋だと実感するが、どこか心もとなく不安が消えない。
ダメだ。すべてが曖昧で不明瞭だ。
産業医は言う。この浮遊感が落ち着くまで3ヶ月ほど様子をみようと。
まだ捨てられずにある学習机に触れる。これを使ってた当時は、こんな未来を予測だにしなかった。懐かしさとやり切れなさ。こんな対極の感情が当時に襲ってくるくらい、今の僕は不安定だ。
僕は引出しに手をかけた。カラカラと共に引出しが開く。
中には、インク瓶が一つ。その瓶を手に取ると、底に青いインクが残っていた。
高校時代に付き合った彼女からのプレゼントだ。万年筆も使ったことのない僕に、ガラスペンとのセットを贈ってくれた。僕の字はガラスペン向きだと笑った彼女と、当時のことを思い出す。
単純な僕はがぜんやる気になって毎日手書きのグリーティングカードを作成した。出来の良さに感激した彼女の発案でネットの手作り市サイトで販売までした。
ブランド名は「わぁ!」。初めて僕の作品を見た彼女の第一声が由来。制作担当の僕と事務担当の彼女。受注に追われるのはしんどかったけれど、第一本当に楽しかった。思えば、あの頃の僕は生き甲斐に溢れていた。
それが今じゃ、この有様だ。仕事に追われて、時間も、自分の体までもが、仕事をこなすツールになっていた。追いつけ追い越せ、でも一体何に?
インク瓶の蓋を回す。底の方に残ったインクは固まっていた。
あの頃の丁寧な情熱を、いつか僕は取り戻せるだろうか?
瓶の中に僕の涙が落ちて、青い結晶ができた。
テーマ; わぁ!
〜1/22テーマ・あなたへの贈り物〜
『底にインクの固まったインク瓶』
1/27/2025, 6:39:23 AM