のねむ

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何気ない日常が、ぼんやりと好きだと思う。

私は、口癖のように口から死にたいと言う言葉が出る。
死にたい気持ちが常にある訳では無く、自分って本当はこの瞬間、実はここには存在してないんじゃないか。とか、失敗した後にちょっと隠してしまったり、そんな自分の嫌な所に気付いてしまったり。
そういう疎外感とか劣等感とか嫌悪感に襲われた時に、死にたいなって思う時もあれば、ただただ、天気がいいから今日に死にたいとか、雨があまりにも降り続けるから今日に死にたいとか、そんな時にも思うのだから、結局は気分なのだろう。

死について、私は一日の半分くらいを使って考える。
どうやって死のうか、今この瞬間強盗が入ってきたらこう死ねるだろうか。そんな事ばかりを考える。
私はきっと生を問われ続けるばかりに、死に取り憑かれてしまったのだ。嗚呼、つまらない人生だと思う。



だから、今日は逆に生について考えたいと思った。
生きていて良かったと思う時、好きだなと思う時、それはどんな時だっただろうか、と。
そうだな。生きていて良かったことと言えば、



書こうとしても思いつかなかったので、飛ばして書こうと思う。いつか、この部分を書けたのなら私は多分、今の私とまた一味違った私になるのだろう。その時には、きっと桜の似合う彼の事も、自分の中で終結を迎えているだろうか。そうだと良いなと、思う反面、そうじゃなければいいとも思う。
人間の心は厄介だ。

好きだな、と思うこと。これは書ける。
冒頭に言った通り、何気ない日常が本当に好きなのだ。
例えば、深夜や朝方に見る音の小さなテレビ。夕方にその音量で聞くと全く聞こえないのに、深夜や朝方に聞くと聞こえる。
あれは、世界の音が小さくなったからなんだろうか。
あの時間だけは、他のどんな人もどんな植物も、動物も、何もかも寝ているのかもしれないし、私の耳が爆速で良くなっただけかもしれない。
祖母の家で、うたた寝している時に私に遠慮して小さな音でテレビを見ている祖母を思い出すからだろうか。あの時間が、とても好きだ。

後は、そうだな。
季節の変わり目に、半袖半ズボンだったパジャマを下だけ長ズボンに変えた時とか、何か良いなと思った。
半袖半ズボンだと寒いけれど、長袖長ズボンだと暑すぎる。そんな中途半端なこの季節が愛おしい。
長らく履いていなかったズボンを履くと、どこか違和感というかムズムズソワソワとしてしまうし、匂いを嗅ぐとタンスの中に入ってたからか、古着の匂いがする。それが堪らなく好きだ。

そんな、何気ない日常が好きだな、とぼんやり思うのだ。
生きることは、嫌じゃない。
生きているからこそ、何かを思い、妬み嫌い、そして好きになれる。だからこそ、面倒くさいとも感じる。
死が怖い訳では無い。死を救済とすら思っているのだから。勿論、多少の怖さはあるけれど、それは死そのもの、と言うよりも死ぬる時の感覚、また遺した人たちへの心配とかそんな不確定な未知に対して怖さがあるのだ。

そんな事ばかりをずっと、一貫して考える。
生きながら、死にたいと贅沢な願いを口にする。


きっと明日も、私は生きるのだろうか。
死と生と、並んで歩きながらどちらに傾く事もせず、ただ先の見えない不安定な道を歩き続けるのだと思う。
生きたいから、死にたいから、ではなく生きているから。死んでいないから、そうするのだ。
それでも、いいと思った。何かに囚われて生きるのは酷く不自由だと思うから。
自分らしく、なあなあに。





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ここで書くことは唯一貴方を忘れない為にしていることの一つ。



人間が怖いんです。
地獄は人間がいてこそ完成すると、私は思っているので、この地球上ではきっと地獄の作り放題ですね。

書きながら寝落ちしてました。
夢の中で兄が、またネッ友にお金を取られる(しかも今回は銀行から勝手に5万抜かれる)夢と、街とか商店街の中の所々にあるゲーセンの補充に回る夢です。広いから走り回ってました。本当は社員さんしか入れない場所に無理やり入って行こうとしてインカムで止められました。その後店長に、低身長弄りされてました。常連さんがスヌーピーの水筒の形状を見たいって言ってました。あまり好きじゃない常連さんでした、
駄菓子屋補充にも行ったら、粗品さんが居ました。
寝ます。

9/30/2023, 8:58:11 PM