夢に聖ウァレンティヌスが出てきてこう言いやがった。
「君の元に幾人かの女性たちがチョコレイトを渡しにくる。しかしそのうちのひとりからしか受け取ってはならない。この忠告を聞かぬ者には、必ずや天罰が下るであろう」
俺にチョコを寄越す物好きなんて母親くらいだ。他のやつらがそういったものを贈ってきたことなんて一度もない。だから、目覚めた時に抱いた感想は、くだらねー夢だな、くらいだった。
いつも通り学校に行きゃあ、男どもは猿みたいにソワソワしてやがる。小学生の頃から変わってないと思われる、何個貰えるかなのノリ。たまーに、本命くれるコなら一発ヤれるんじゃね、とかほざいてるような全身股間人間もいた。汚物だ環境汚染だ地球破壊だ。アースデブリはデリートデリート。ノートがあったら書き込むこと間違いなし。
そうやってどうでもいいことを考え、痛々しい自分がいることに気づきながら、午前は過ぎていく。数学の授業でチョコを扱った二次関数の文章題を解かされた時は、このハゲ教師も期待してんのかよ、と思った。
昼食を摂り終えると呼び出しを食らった。いままで会話したことのない女子からだ。名前すら知らない。何度か顔を見たことはある。よくわからないやつにほいほいついて行く俺はどうかしているんじゃないだろうか。
「で、用ってなんだよ。わざわざ物理実験室にまで呼び出して。実験やレポートの手伝いなら御免だぜ」
「そんなこと頼まないわ。誰もいないからここを選んだのよ。それより、今日が何の日か知っているでしょう?」
「ヴァレンタインだろ。それがどうした? まさかお前、俺にくれるとか言うんじゃないだろうな? 関わったこともねーのに」
額に手を当て、ため息を吐く女。そーいう話じゃないのか。だったらなんだよ。
「あなたは忘れてるでしょうけど……私は憶えてるわよ、あの日のこと。今日は日が日だし、そのお礼も兼ねて、これを渡そうと思ったの」
そう言って女は、実験台の下から小包を取り出す。透明な袋に白いリボンのついた、シンプルで可愛いラッピング。中身はクッキーらしかった。
「慣れないことだったけれど、昨日、頑張って作ったのよ。あなたさえよければ、受け取ってちょうだい。それと……あの時はありがとう」
「待て待て。俺の記憶は確かだ。本当に何のこと言ってんのか、さっぱりわかんねーぞ。もしかしなくてもお前、やべーやつか?」
「この期に及んで往生際の悪い人ね……いいから受け取りなさい」
ダッと距離を詰めて俺に菓子を押し付け、女はそのまま出ていく。去り際、バカ、と呟いていた。
「んだよ、わけわかんねーな……」
混乱状態が解けず、俺はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
教室に戻れば、寄ってくる数人の男。「あの美人とはどーいう関係だ」「お前チョコ貰ったのか」「死ね」など、返事のめんどくせーことばかり言ってきやがる。いまの俺に重要なのは、そんなことじゃない。あいつは何者なのか。それだけだ。
野次馬をテキトーにあしらって、記憶を辿る。
こーいう展開ってのは、小中のどこかで接点があったとか、高校生になってから手助けをする機会があったとか、そーいう感じのやつだ。そうだと相場が決まっている。
行事をすべて思い返してみるが、やはりそれらしきものは記憶にない。黒の超長髪をしたあの女は気が狂っていたんだろう。
机の上に置いていた袋は一応、ありがたくカバンに仕舞っておく。花の形を模していたが、俺にはそれが何の花であるのか、見当もつかなかった。
睡魔と格闘していた午後の授業もあっという間に終わり、放課後。
待ってましたと言わんばかりに、チョコの受け渡し会が開催される。女子からブツを貰った男連中は鼻の下を伸ばしていた。デレデレしやがって、気色ワリィ。
さっさと身支度を済ませ、帰ろうとすると、学級委員長に呼び止められた。
「珍しいな、委員長が声かけてくるなんて。どうした?」
「これ、渡そうと思って」
差し出されたのは、どこぞの高級チョコの小さな箱。六個か八個入りで、樋口一葉は確実に飛んでいくやつだ。
「本当は作りたかったんだけどね。塾で時間取られちゃって。少しでも良いものをと思って、奮発しちゃった」
ボーイッシュな見た目をしているのに、もじもじしている姿が可愛いな。……違う、そうじゃない。
「待ってくれよ。委員長まで急にどうしたんだ? こんなことするキャラじゃないだろ。ドッキリか? ドッキリなのか?」
「何言ってるのかわからないけど……本命だよ。ありがたく受け取りなさい」
言葉を返す隙もなく、箱を突きつけられる。手渡されるのは良いが、周囲のやつらにガン見されてるよ……
「じゃ、そういうことだから。返事は一ヶ月後でいいよ」
「あ、ああ……」
俺、またしても放心。って、とんでもない課題を投げてきやがった。どうすんだよ、これ。
今日という日は間違いなく特異点だ。普段話すことのないやつが次々にチョコを渡してくる。俺モテ期? なんて調子に乗れるような状況ではない。むしろ背筋がゾッとする。
当然の如く、昼の男たちは揶揄いにくる。こいつら、友達でもなんでもねーんだよな。ただのモブABC。トリオになると雑魚そうに見えるのは、漫画の読みすぎか。
三下を雑に片づけ、教室を後にする。
下駄箱には、チョコブラウニーとともに手紙が添えられていた。差出人を確認する。
「……図書委員のやつか」
眼鏡をかけた、大人しそうな女だ。貸出の時に何度か顔を合わせたことはあるが、それ以外で関わったことはない。
手紙の内容は至って簡潔だった。ずっと前から好きだったから、手作りチョコを食べてほしい。それだけで、特筆すべきことは何も書いていない。
どいつもこいつも、理解に苦しむ。俺がイカレちまったのか? それとも、俺以外がイカレちまったのか? もうわかんねぇよ……
結局、バイト先のお姉さん、近所の若奥さん、よく面倒を見ている小学生、妹、この四人からもチョコを貰った。母親は言うまでもない。
例年の八倍になる贈り物を賜ったわけだが、俺はもうヘトヘト。心労がひでぇったらありゃしない。
自室のベッドに沈んで寝ようとしたら、今度は思い出す思い出す。最初の女のこと、蘇ってきた。
些細なことだ。街中でガラの悪い輩に絡まれているところを助けただけ。暴力沙汰にはなっていない。俺の見た目が幸いした。本当にこれだけだってのに、あの女はなぜそこまで……
クッキーにはどうやら、ミモザが使用されているらしい。ご丁寧に成分表示してあるから判った。
「花言葉は……秘めた愛? 重たすぎるっつーの」
どうしてそんなことまで成分表に記載しているのかは、考えるまでもない。
けど、このクッキーはいったいなんの花を象ってんだ? サクラっぽいが……
「まあ、いっか。とりあえず食おう」
眠気はどこへいったのやら。自分の頬が緩くなっているのは、気のせいってことで。
ゆっくり味わって食べる。慣れねぇって言ってたが、うめぇじゃねぇか。
一度食べ始めると止まらず、他のやつも順調に消化した。
ぜんぶ胃に収めると、眠くなる眠くなる。
「もう、むり……」
電池が切れたみたいに、パタリと眠りについた。
気づいたら、また聖ウァレンティヌスが夢に出てきてやがる。
「またお前かよ……」
「私の警告を無視したようであるな。残念だが、君、睡眠薬や毒の入ったチョコレイトを口にしたから、もう死んでいるよ」
「……は?」
「だから、死。謀られたのだよ」
「冗談、だよな……? 本気で言ってるのか?」
「正真正銘の事実だ。言っただろう? ひとりからしか受け取ってはいけない、と。母親以外のものは、すべて事前に計画が立てられていた。主犯は、最初の娘。彼女が他の者に話を持ちかけ、全員のチョコレイトを食べることによって君が気づかないまま死に到るように仕向けた。その罠に嵌ったのだよ」
「……信じられねぇ」
「私が嘘を吐いてどうするというのか。受け入れたまえ、君の人生は終わったのだ」
「はいそうですか、ってなるわけねぇだろ! これも夢だ、さっさと醒めやがれ!」
「ならばずっとここにいるが良い。何も無い、永遠の退屈を与えよう」
そう言って、聖ウァレンティヌスは俺の前から消えた。
真っ白な空間が、どこまでも広がっている。
怒鳴る、叫ぶ、喚く。
何をしても、音が虚しく響き渡るだけ。
眠りにもつけないらしく、俺は思考することを放棄した。
……二月十四日は、めでたい日なんかじゃない。
聖ウァレンティヌスが斬首された日だ。
そして、俺の命日となった、クソみたいな日だ。
2/14/2024, 3:35:25 PM