KAORU

Open App

 僕は、声をかけてみたかった、君に。

 この駅での停車中、向かいのホームに入ってくる電車。いつも同じ車両、同じドアのところに立って本を読んでいる君。
 可愛いな、どんな本読むのかなって、気になってたーーずっと。
 こないだゲリラ豪雨に見舞われて、駅で足止めを食った時。君と目が合った。ドア窓越しに。
 チャンス! 思い切って、ジェスチャーで聞いた。
 何の本?て。
 君は慌ててカバーを外して、表紙と作者名が分かるようにドア窓に押し当てた。びたっと。
 リアクションが嬉しかった。めっちゃ可愛いと思った。
 

 その数日後、タワレコで偶然君を見かけて、僕はとっさに声を掛けた。ねえ、君。僕、こないだ電車ですれ違った……、ミセス、聴いてた。覚えてる?
 君は目を丸くした。笑顔を見せて、すぐにそれが凍った。
 困ったように、躊躇うように僕を見て、ごめん、と顔の前で手を合わせた。
 そして、口をゆっくり動かして、声には出さずにこう言った。
 私 耳 聞こえない。ごめんね。
 泣き笑いみたいな、顔をした。

 
 ーーえ。
 ポカンとしたと思う。だって、君いま、タワレコ来てるじゃん。視聴ブースにいるじゃん。でもって、ミセスのアルバム、手にしてるじゃーー
 持っては、いる。でも聴いてはいない。
 ジャケットを眺めている、だけーー
 僕の目線に気づいて、君は恥ずかしそうにそれをラックに戻した。そして逃げるみたいに、店を出て行った。
 
 友達は、やめとけよと忠告した。耳が聞こえないのは、気の毒だとは思うよ。でも、お前が付き合うことはないだろ。縁がなかったんだよ。お前ならもっといい子、すぐに見つかるよと。
 ……そうだろうか。
 僕は君の、電車のドアの近くの手すりにもたれて本を読む姿が好きなんだ。世界がしんと澄んで、雑音が周りから消えていくような気がする。どんな音楽よりもきれいな音が奏でられて気がするんだ。
 透明な何かが君を包んでいる。
 あんな子、他にいないーー

 僕は君が好き。君のことを想うと胸が満たされる。僕は君からもう、形のない大切なものをきっとたくさんもらっているんだ。

#形のないもの
 
「声が聞こえる2」

9/24/2024, 10:50:09 AM