【月夜】ロクなことがない日
今日はロクなことがなかったなぁと、ぼんやりと歩く。本当にロクなことがなかった。単純にレポートの提出が重なっていて寝不足気味だったこともあるが、階段で転ぶわ、教科書を教室に置きっぱなしにするわ、昼の学食では食べたいものが売り切れるわ、電車が遅延して帰宅の頃にはすっかり日が暮れてしまうわと、なかなか散々だった。
どうも、妙に目がギラつくというか、夜あまりよく眠れなかったし、背中はそわつくし、イライラしそうになってよくない。怒ったっていいことはないのに。
日が暮れて人のいなくなった公園で、寒空に浮かぶ満月をなんとなく恨めしい気持ちで睨んでから、コーンスープのプルタブを上げる。電車を降りて自販機で買ったそれを飲みかけて……あ、とまたため息が出た。薄暗くてよくみていなかったのもあるが、今手の中にある缶の表面を見る。それはどうみても「ココア」と書いてあったし、甘い香りが漂っていた。隣を押したか? いやそんなことはないはずだ。よくある話だ、隣の商品が出てきた、といやつだ。もう開けてしまった。
「あ〜……」
思い切り項垂れる。誰に見られてても構わないとさえ思っていた。なんなら少し聞いてほしいまである。なんだってこんなに悪いことばかり続くのか。
ふと、その項垂れた視線の先にスニーカーが転がってるのが見えた。片足分だけだ。サイズが今自分が履いているものと変わらないな、と思いながらそれを手にする。
「あー!」
と、公園の茂みの中から声がした。
「あの、ええとそれ、こっちに投げてくれません?」
もごもごと少しこもった声、若い男のようだったが、怪しかった。
「……」
返答せずに近付いていくと「あ、ダメダメダメ、なんで来んの!?」と小さな悲鳴じみた声が上がる。
がさり、と茂みの中に分け入ってみると、奇妙なものがいた。大枠で見れば人っぽい。髪の毛が生えていて、眼鏡をかけていて、パーカーを着ていて、ズボンを履いていて、靴を片方だけ履いている。ただ、その靴下は破けてしまっていた。鋭い爪を生やしたつま先、奇妙な形に曲がっているのが浮かび上がるズボン、両腕も鋭い爪を生やした手を持っていた。手だ。そして太くて長い首の先に、犬によく似た形の顔があった。髪の毛と、いくらかあるすね毛や指毛以外は無毛だ。
脳裏に、「狼男のなり損ない」という言葉が浮かんできた。
彼はひどく狼狽えていたが、やがてこてん、と首を傾げた。
「あれ……君も、狼なんじゃないか」
「は?」
その生き物は、頬を歪めた。おそらく笑ったのだろうが、口の形が違うので、その笑みの示すところまでは読み取れない。
「人の形のままだとイライラっていうかムカムカっていうか、しんどいのに。よく我慢していられるね」
「いや、何言ってるかわからん……ていうかお前何者だよ」
狼なわけないだろ、と言い返すと、その狼男モドキは何か納得したように頷いた。
「そうか、隔世遺伝とかもあるからね、知らないのも無理ないか」
頭が追いつかない。何を言われているか分からない。そうしている間に、目の前のなりそこないに毛が生えてきていた。ああ、なりそこないじゃなくて、これは。
「はぁ、落ち着いた……家帰る前に始まっちゃってびっくりしちゃったよ。ねえ」
ふわふわとした塊がふさふさと揺れている。尻尾だ、と思う前に、目の前に明るいオレンジ色の目が飛び込んでくる。灰色の毛をした中に、キラキラと輝いたそれが見下ろしてくる。
「あんよは上手、からかな。ほら」
逃げるとか、抵抗するとか、そういう暇がなかったというより、そういう気が起きなかった。手を繋がれて、柔らかに握りしめられる。そうすると急に全身を覆っていた緊張感がばっと溶けてしまった。解けたのではない、まるで皮膚の表面を滑り落ちていくような不思議な感覚。
「うわっ」
不可解なそれに驚いていると、握られていた手が大きくふしくれだったものに変わっていくところだった。足元がふらつく。踏みしめようとして片足が浮いてしまうと、ちょうど靴が脱げて飛んでいってしまった。ぽーん、と弧を描いたそれが人のいない公園に落ちる。靴下がビッと小さな悲鳴をあげて裂けた。
3/8/2026, 8:41:09 AM