得られるものは特にない、だからよかった
お酒が好きで、でも一人で飲むと全く酔えないから雰囲気だけでも味わおうとたまに居酒屋にいく。ガヤガヤとした喧騒の中で色んな悩みや苦労を酒で誤魔化す人の話は、なぜかよく聞こえる。
「一人で飲んでて寂しくないのかい」
大将は意地悪そうな笑みを浮かべて失礼なことを言ってくるが、実は女の一人飲みを配慮してくれているだけだ。店員の目があるぞというさりげないアピールである。酔っぱらいに効果はあるか謎だけどね。
「味玉いるか?好きだろ?」
特製の醤油ダレが染み込んだ茶色い卵を2つ、返事をする前に差し出された。卵料理ばかり注文しているからかしっかり好みを把握されて、今では余りそうな卵料理を勧めてくるようになったのだ。美味しいので文句はないが強引だなと思いながら味玉を頬張る。塩気を含んだ黄身がとろけるのが最高だ。
「酒は?麦ね、はいどーぞ」
炭酸が苦手なので飲めるものはだいぶ絞られている。ほぼ水割りしか頼まないのだが、烏龍や緑茶で出てくることもあって今回はどうかと楽しみにしていた。出てきたのは適当に砕かれた大粒の氷が入ったグラスで、ストップ言えよと冗談めかして酒を注いでいく。案の定、規定の量で勝手に止まるのだから聞く意味あるのかと思う。
ロックも美味しいからいいけどね。
「それで最後だ」
すっかり常連扱いされてしまって、店に入ってすぐに予算を聞かれてその分の支払いをするようになっていた。今日の予算は8000円、つまりこのロックで晩酌は終わりということだ。
もったいなくてちびちびと舐めて味わった。
「気いつけて帰れよ」
店を出る前に眦を下げて手を振る大将に、軽く頭を下げてごちそうさまと伝えて帰路につく。
あれは普通の対応じゃないことは分かってる。でもその優しさが嬉しくて、情けなくて、ただ歩くことにすら集中できない。
風に乗って聞こえる喧騒が、内容は一つも聞き取れやしないくせに妙に同情的で侮蔑を含んだものに聞こえて困る。ただ生きることすらままならないのに生きている。
その意味のない優しさがゆっくりと首を締め上げてきて苦しいよ。せめて、せめてさ、
―――お前なんか消えてしまえ
そうやって責めてくれたならよかったのに。
【題:風に乗って】
4/29/2026, 2:48:24 PM