エル

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彼女を見ている。
窓を閉め切った四畳半の部屋は静かで、まるで世界全体から疎外されているようだ。私と彼女以外の存在なんて一つも無いような、そんな感覚。
長針と短針が同時に12の文字を越える瞬間、私は彼女の唇に触れた。彼女の唇の味は甘く、そして拙い。頭の中で何かが弾けて割れる。粉々になって砕け散る。
私のすべては彼女のものだった。
肩までに切り揃えられた、きめ細やかな黒髪。夜が溶けたように深みを帯びた瞳。白い肌。赤い唇。
爪の先から瞼の裏側に至るまで、そのすべてがどうしようもないほど愛おしく、そして憎らしい。
指の長く、洗練された手が、私の頬に触れる。その薬指に嵌められた指輪が、冷たい。
遠くに聞こえるパトカーのサイレンが、部屋の静寂に邪魔をする。朝は来る。夜は終わる。拒んでも、抗っても。
だから今、この瞬間だけは。
つまらない現実など忘れてしまいたい。
退屈から逃げたい。
私のすべても彼女でありたい。 
目を瞑る。愛情と、憎悪と、その間にある名前の無い感情すべてを呑み込んで、私は彼女にキスをした。

#現実逃避

2/28/2023, 3:44:11 AM