Open App

「1つだけ」

私の後ろにいるのは誰だろう
パンプスのストラップを止めるために
玄関にしゃがみこんでいる私の背中を撫でたのは
聞いたことの無い声だった

「1つだけ、聞いておきたいの」

口を固く結んで耳をすませる
その声は信じられないほど震えていた

私の母は気丈な人だ
幼い頃に父親と大喧嘩の末離婚、
女手1つで私を育ててくれた
強くてたくましい母親
そんな彼女に私が見いだしていたのは
母性ではなく
限りなく父性に近いものだった
母は多くの物事を背中で語り、
私の幼心に寄り添うことをしない人だった
何度、母のささくれだらけの手を焦がれ、
同じ時を過ごしたいと願ったことか
しかしそれは
何時になっても叶うことがない夢と化した

私が虐められた時も、
父親が押しかけてきた時も、
残業明けの早番の時でも、
母の背中は頼もしく、
その声は常に力強く未来へと伸びていた

だから私は母の声が震えることを知らなかった
弱い母を、知らなかった
今の今まで

「あたし、良いお母さんだったかな?」

ああ
最後になんという愚問だろうか
これから旅立つ娘に
どうして母は敢えてこの問いかけをしたのか

私はどう答えるべきか分からずに
パンプスの金具をじぃっと見つめていた

その長く重い一瞬の沈黙は
今も私の心の中に響き続けている

4/4/2023, 4:55:16 AM