馬鹿
秦の始皇帝が崩御し、宮廷には不穏な空気が漂っていた。
新たに即位したのは二世皇帝・胡亥(こがい)。だが、実権を握っているのはただ一人。始皇帝の側近であり、宮廷の宦官、**趙高(ちょうこう)**だった。
趙高は冷酷で狡猾だった。彼は皇帝を操り、己の権力を確固たるものにしようとしていた。
しかし、まだ宮廷には趙高に従わぬ者もいた。将軍や重臣の中には、彼のやり方に疑念を抱く者も多かった。
「……ならば、試してやろう」
ある日、趙高は一計を案じた。
翌朝。
玉座の間に重臣たちが集められた。趙高はにこやかに微笑みながら、一頭の鹿を引き連れて現れた。
「陛下。これは立派な馬でございます」
二世皇帝・胡亥は、のんびりと鹿を眺めた。
「ふむ……趙高、これはどう見ても鹿ではないか?」
「いえ、陛下。これは珍しい馬にございます」
胡亥は眉をひそめ、周囲の重臣たちに目を向けた。
「お前たちにはどう見える?」
宮廷に沈黙が落ちた。
誰がどう見ても、それは鹿だった。
しかし——趙高の目は冷たく光り、その口元には笑みが浮かんでいた。
「……馬にございます」
一人の大臣がそう言った。
「左様。これは馬にございます」
「馬でございますとも」
次々と、大臣たちは鹿を「馬」と言い換えた。
しかし、一部の者たちは沈黙を守った。あるいは、訝しげに顔をしかめた。
それを、趙高は見逃さなかった。
数日後。
「鹿は馬であると認めなかった者」たちが、次々と失脚した。
ある者は冤罪で投獄され、ある者は暗殺され、ある者は姿を消した。
——趙高の狙いは、はじめからそこにあった。
彼は、皇帝の前で臣下を試したのだ。
「馬です」と答えた者は、すなわち自らの命を守るために趙高に従った者。
「鹿です」と答えた者は、正しさを貫き趙高に刃向かった者。
そして、後者はすべて粛清された。
趙高は満足げに宮廷を歩いた。
自分の言葉が**「真実」**として受け入れられる世界。
道理がねじ曲げられ、誰もそれを正せない世界。
「ふふ……馬であると、言ったはずだ」
かつて、鹿であったものを見ながら、彼は冷たく笑った。
1/31/2025, 1:42:56 PM