私、永遠の後輩こと高葉井が勤めてる私立図書館では、複数の閲覧室があるけど、
ひとつだけ、静かにBGMが流れてる部屋がある。
理由は、詳しく聞いたことはない。多分子供連れの親子に配慮して、だと思う。
防音にでもなってるのか、ドアを開けるまで中で音楽が流れてるなんて分からなくて、
入ってみれば、たまに小さな子供に親御さんが、あるいはそこの閲覧室の担当職員さんが、
絵本の読み聞かせなんかを、たまにやってる。
今日は私が、そのBGMが流れてる部屋の担当。
朝礼が終わってから閲覧室に向かって、本の整理整頓をして、開館アナウンスが入って。
さぁ今日も、お仕事、お仕事。
私も大好きな推しゲーの聖地にして生誕地ってだけあって、この私立図書館は、人が多く来る。
ところで今日は何故かいつもと違うBGMが閲覧室に流れてるけど、何だろう。
「さあ、子供たち。
不思議なワサビの絵本の、はじまり、はじまり」
気が付いたら私担当の閲覧室には、長い黒髪が怪しいっちゃ怪しい、キレイっちゃキレイな、
つまり、要するに、怪しくて若い女の人が、
小さい子供たち5人くらいに、見たことない絵本の読み聞かせを始めてた。
ワサビの絵本だってさ。
不思議なワサビの絵本だってさ。
それを5人も、ガキんちょが食い入るように見て聞き入ってるんだってさ。
絵本界隈というか、絵本世界というか、
最近はいろんな絵本が出てきてるのは、この図書館でよーく理解したけど、ワサビ、だってさ。
どうしてこの世界は子供にもニッチを提供できるんだろう(絵本作家の多様性)
どうしてこの世界は、猫でも狐でも犬でもなく、
ワサビなんかのおはなしも許容できるんだろう
(絵本作家の物語構築スキル)
「昔々、あるところに、」
なんだか本当にワサビの香りがしてくるような錯覚と一緒に、読み聞かせは始まった。
「深淵にして、偉大なる、不思議な不思議なワサビが、美しい霊場の霊力を吸いながら、
美しい水とともに、育っておったのじゃ」
絵本が「のじゃ」なのか、この黒髪さんが「のじゃ」なのか、分からないけど、
ともかく、その若い女性が読んでる絵本は、どこか絵本らしくない言葉ばっかり。
「不思議なワサビは偉大なワサビ。
ひとくちそれを食べれば、香りをかげば、
この世の苦悩も根塊も未練も、すべて、忘れ去ることが、できるのじゃ」
ワサビの香りがしてきそうな、
いや、実際に香ってるような気がしないでもない、
ともかく、絵本の読み聞かせは続いてる。
(聞いてて面白いのかな)
子供たちは、子供たちなのに、ちっとも動かない。
(なんでだろ、ワサビなのに、気になる)
ふわふわ、ふわふわ。
ワサビの香りが漂う絵本の読み聞かせ会は、
すごく異様で、すごく異質で、すごく不思議。
なのに目を離せない。耳を閉じられない。
読み聞かせの声のせいかな。
読み聞かせ界隈は意外と広い。
どうしてこの世界は、声だけで人間を引き付けられるんだろう……
なんて考えてたら、
副館長が大急ぎで、私の担当の閲覧室に、すっ飛んできて、黒髪のじゃさんを追い出しちゃった。
「アタシの図書館でまた妙なことして!
子供をワサビの世界に誘拐しないでちょうだい」
「おやおや、多古副館長かえ。
誘拐とはまた、無粋な。ワタクシはワラベたちを、ワサビの世界へ、招待しておるのじゃ」
「招待も誘拐も一緒よ!ほら出てった出てった!」
ふんふん、ぷんぷん。
副館長が黒髪のじゃさんを図書館からつまみ出すと、私の担当の閲覧室は、いつものBGMに戻った。
「なんだったんだろ。あれ」
副館長は、何も言わない。
ただ黒髪のじゃさんが座ってたあたりに、お清めの塩っぽいものを盛るだけだった。
6/10/2025, 9:54:02 AM