「また会おうね」とか「また明日」とか「バイバイ」とか、次を約束する挨拶をなんのためらいもなく口に出せていたのは、多分中学生くらいまでだった気がする。純粋だったというより、何も考えていない思慮の浅い子供だったからだろう。
歳をとり、大人に近づくにつれ、相手との「次」を繋ぐのは難しいことだと知った。
「また遊ぼうね」という言葉に「そうだね」と返しながら、これは優しさゆえの世辞なのか、それとも私と同じように本当にそう思ってくれているのか、いつも考えてしまう。お互い楽しかったね、と笑いあっているのに、その笑顔が本物なのか疑ってしまうのが常だった。ただの雑談でも、私は返答や表情やリアクションの“正解”を考える。ここは笑うのが正解、この時はきっと聞いてほしいだけだからそれに徹して相槌を打つ、愚痴にはアドバイスではなく共感を表す───とにかく相手に合わせて、その人にとって正しいコマンドを選択しなければならない。自己を出すと碌でもないことになるというのが、僅かな経験で得た教訓だった。しかしそういう人付き合いの仕方が私の悪い癖で、他人と関係を上手く築くことができない原因だという自覚はある。
他人と衝突するのがとにかく苦手だった。些細な“間違い”は不審に変わり、猜疑の芽になり、やがて人間関係に根をはって軋轢を生む。その様子を見ていることもあったし、種になったこともある。そのたび私は無神経な人間になろうと自分に麻痺をかけたり、被害者面して傷付きその痛みを他人のせいにしてきた。嫌な人間だな...と書いていてうんざりする。
傷付くのはとにかくつらい。メンタルに負った傷が完全に治ったためしがないからだ。だから痛みを忘れるか、痛み続けることを諦める他ない。
しかし私はそれも出来ず、いまだにこうして「人間関係が上手くいかない。頑張ってきたのに。傷付いてつらいんです」とここで吐露して楽になろうとしている。でも別に慰めてほしいわけじゃない。と強がっているが、きっとここで「すっごいつらいから誰か慰めてー!!誰か助けてー!!」と叫べる人間の方がおそらく強い人間だと思う。少なくとも私はそう考えるし、羨ましいと嫉妬するし、そうなりたいと憧れる。
自分の気持ちを叫べる勇気と、誰か応えてくれるという他者への信頼と、ほんの僅かな無神経さは、人と関係を築くうえで大切だと思う。私はどれも持っていないから、相手との距離が縮まらない。というかそもそも私がコミュニケーションに対して卑屈なので、相手も近づこうとは思わないだろう。こういうことをウダウダ考えてしまうので、私はいつも寝る前に布団のなかで一人反省会をし、後悔でもんどりうつ羽目になる。
みんなどうして自然に和に溶け込めるんだろう...人との関わり方が上手いんだろう...どこを見渡してもコミュ障なのは私だけな気がしたし、誰もが出来ることを私だけいまだに出来ていないようで、どうして普通になれないのかとみじめな気持ちになったりもした。
でもsnsを見ていると、私が悩んでいるようなことをみんな考えているようで、「えっ」と意外に思った。まさに私が思っていることがそのまま文字に起こされている気がして、自分が書いたのかと驚くほどだった。
まったくの他人のさまざまな考えを覗けるsnsのよい点は、自分だけじゃないのだと周囲を見る余裕をくれたところだ。例えば、いま目の前にいる人は、もしかしたら私と同じように人付き合いが苦手で、それでも頑張って話しかけてくれたのかもしれない。そう考えると、私の態度はかなり失礼だし、相手に同じ思いをさせてしまうだろう。
他人に一歩踏み込むのは結構な勇気がいる。私にとってはそうだった。それで空回って上手くいかなかった経験があるので、もうあんな恥ずかしい思いはしたくないと足がすくんでしまうのだ。
上っ面の関係ならいくらでも自分を取り繕える。一定距離を置いて、仲のいいフリをするのだってそれなりにできている、と思う。社会は案外そんな距離感でまわっているように見えるし、私は職場でよく話す人がいるけど、その人のことをよく知っているか・仲がいいかと聞かれたら「まあ...」と曖昧に答えるだろう。
どれだけ仲が良くて仕事の愚痴を言い合っても、私たちは“職場のそれなりに気があう人”でしかない。仕事という繋がりがなくなれば、きっとあっさり縁が切れる。退職や異動の後、偶然会う機会があれば「久しぶり!元気だった?」とお互いの近況を話すが、わざわざメッセージを送って気にかけるほどではない間柄と例えたらいいだろうか。寂しい関係だとは思わない。私も相手もそうするだろうと想像できるからだ。
きっと少ししたら、いなくなった人の位置に別の人が収まって、仕事の愚痴を言い、持ち寄った噂話でこそこそ盛り上がり、そういうくだらない同じような会話を繰り返しているかもしれない。
退職した人のことなんて一ヶ月もしたら忘れるとはよく言うが、結局どれだけ惜しまれようがその人の代わりはいる。それは社会のいいところだと思うし、悲しいところだとも思う。
私は代えのきかない存在になりたいわけではない。むしろ今の社会のあり方は気楽でいい。学校の方がよほど苦しかった自分にとって、社会人の皮を被っていれば薄っぺらいままでいられる場所は楽だった。
でも私は、家族ではない誰かに本音を打ち明けたり、傷付いたり衝突することを恐れず話しができるような関係を築けるようになりたい。働き始めてから、何故か思うようになった。必要ない、今のほうがいいとすら思っているのに、不思議なことである。
まあ単純な話、友達が欲しいのだ。長々吐き出したが結局この一文で全て事足りる。というのを、ここまで書いてようやく理解した。
たぶん、何も考えていないハナタレの子供だった時のように、人と関わることに恐れがなかったバカに戻りたいのだと思う。イヤなこともあったが、やっぱり楽しかった思い出もたくさんある。そのほとんどは友達とどうでもいいことで笑いあったり、だらだら喋ったり、遊んだりした記憶だ。
散々遊んだあと、「じゃあね」「明日ねー」「また遊ぼ」と手を振って別れた帰り道は幾度もある。そのときの私は言葉の裏なんて考えもしていなかった。必要が無かったというのもあるが、みんなのことをただただ純粋に“友達”だと思えていたからだ。
どれだけ歳を重ねても、なんのためらいも不安もなく、いつかのあの頃のように「またね!」と言える相手が出来たら......なんて思いはしない。けれども、すくんで動かなくなった足を一歩踏み出す度胸と、人を信じる強さは、今さらだとしても、自分の力で手に入れたいものである。
久々にこんな長く書いた。自分の気持ちを書き出すって難し〜🤯苦手だったから今までしてこなかったけど履歴書埋めてるときみたいな自分を掘っていけばいくほどメンタルベコベコに凹んだあの頃を思い出して悲しくなった。
テーマ見返したらちょっとズレてる?
テーマ またいつか
2025.7.23
7/22/2025, 4:15:30 PM