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「天国と地獄」

「人生リセットすることにした」と彼は言った。私がこれまでの会社人生で最高の気分で帰宅した直後のことだ。何を言っているのかわからなかった。一緒に乾杯しようと途中で買った缶ビールを置く暇もなく、スーツケースを引いて出ていこうとする。

「リセットって?」
「リセットだよ。全部やり直す。ここも出ていく」
「別れるってこと?」
「まあ、そういうことになるかな」
「嫌って言ったら?」
「関係ない」
「関係ない?」
「うん。関係ない。俺のリセットに君は関係ない。だから何も気にしないで。ただここを出るだけのこと」
「私のこともリセットされるの?」
「そう。じゃあね。今までありがとう」

人生リセットサービスは数年前からあるのだが、まだ世間的には認知されていない。ただ彼は人生リセットサービスを提供する側だった。数々のリセットされた人生を見て自分もしたいと思ったのだろうか。

翌朝、重い足を引きずりながら会社に着いた。入口でIDをかざして通り過ぎようとしたらブザーが鳴った。IDが無効になっているようだ。近くにいた警備員が駆けつける。私の持っているIDを照合して調べてもらった。

「昨日付けで退職されています」
ああ、私もリセットされたんだ。仕方なく会社を出ると向こうからよく知った顔が近づいてくる。目が合ったが無視された。何人かすれ違ったけれど誰もが無視するということは、もうこの会社の人間として認知されていないんだ。

絶望的な気分で入口の階段に座り込んだ。そろそろ出勤のピークだ。駅から歩いてくる人たちがビルに吸い込まれていく。このビルにも大勢が押し寄せる。その中に彼を見つけた。昨日、新しいプロジェクトのリーダーを君に任せると言った上司が彼と並んで歩いている。

リセットして私のポジションに収まったんだ。強制的にリセットされた私はどうなる?誰かのリセットの犠牲になった人には救済措置として自分もリセットできることが許されている。でもしない。

リセットした人は来世では地獄に行くことが決まっているという。リセットせずに留まった人には天国が待っているらしい。彼は地獄行きと現世での成功を天秤にかけて、地獄行きを選んだのだろう。そんなに私の人生がほしかった?あげるよ。でもそれで終わると思わない方がいい。

立ち上がると歩き始めた。来世なんて不確かなもので復讐できるとは思わない。現世で地獄を感じるがいい。プロジェクトの概要はもう知っている。先回りしてことごとくつぶす。どんな汚い手を使っても彼を陥れる。だって、何をしてもリセットしなければ天国行きは決まっている。リセットは負け組のすることだ。



5/28/2024, 1:16:23 AM