交差点を渡っていた。
目の前の信号は青だった。
僕の前を、ベビーカーを押した女性が歩いていて、彼女の肩越しに、ベビーカーの中の赤ちゃんが笑ってるのがチラチラと見えた。
何が楽しいのか分からないが、幸せそうな笑顔だった。
そこに、一台のミニバンが突っ込んできた。
ノーブレーキで。
咄嗟に僕は、目の前の女性の背中を押した。
力いっぱい。
きっと彼女は、前方に倒れ込むような形で信号を渡り切ったはずだ。
そう思った瞬間に、全身を重い衝撃が走った。
訪れた静寂の中心で、僕の体は横たえられていた。
何の物音も聞こえない。
視界は生きていて、数人の男女が僕を遠巻きに見ている。
そのうちの一人が、スマホを耳にあててどこかに電話をしていた。
救急であってくれ。
友達へのサプライズ報告なんかじゃなく。
薄れてゆく意識の中で、横断歩道を渡りきった場所にいる母親と、ベビーカーに乗った赤ちゃんが見えた。
不安そうな顔で僕を見つめる母親の隣で、先ほども見せてくれた幸せそうな笑顔で僕を見つめる赤ん坊。
君は無事だったのか。
僕にあんな勢いで押されたのに、怖がらずに笑っていられるなら安心だ。
良かった。
心配しないで。
僕は正しいことをしたんだ。
きっと助かる。きっと誰かが助けてくれる。
目の前の母親か赤ちゃんが死んでしまったら、どちらだとしてもあまりにも辛い現実が待っていた。
母親を失った赤ちゃん。赤ちゃんを失った母親。
どちらも見たくない。
僕は、もうすでに両親に先立たれていてね。
たった一人の肉親である姉がいるだけなんだけど、やっぱりまだ、お別れしたくない。
だから、この目は閉じないよ。
耳は聞こえなくて静寂のままだけど、ここに集まった人達がきっと助けを呼んでくれる。
何人かがスマホで話してる。
何人かがスマホで撮影してる。
そしてほとんどの人達が、不安そうにただ、目の前を通り過ぎてゆく。
この、静けさの中で、命を終える可能性を考えた。
可能性は、ある。だから考えた。
だけど、可能性がある、ということ以外、何も分からなかった。
たぶんきっと、死ぬことについて、真剣に考えたことなど、なかったから。
考えなくていい、人生を送ってきたから。
幸せだったんだな。
あ、救急車だ。
ありがとう、誰かが、僕の命を救おうとして、くれている。
でももう、体の感覚が、ほとんどない。
どこも痛くない。なんだか眠い。
少し眠っても、いいですか?
目覚めたら、そこはどちらの世界なんだろうか。
真っ白な部屋で、僕は、目覚めた。
10/7/2025, 11:35:38 PM