のの

Open App

お題:時計の針









※グロテスクな描写、暴力を示唆する表現があります。
苦手な方は飛ばしていただけると幸いです。


※また読んでいただいている方、ありがとうございます。
続き物の話ではありますが、1話でも楽しめるようにと思い書いているため是非読んでいただければ嬉しいです。









うつらうつらしていた頭に、真っ赤な鮮血がフラッシュバックする。
ハンマーに殴られたかのような衝撃が胸に来て、バクバクする心臓を押さえながら体を丸めた。

昨日からずっと同じことの繰り返しだった。
昨日の夜、刃物に刺された少年を見てから。

不審者の持ってる刃がサクッと体に飲み込まれる光景。
蹴り飛ばされた少年の、壊れた弦楽器のような悲鳴。
何度も刺されるたび、骨と刃物がぎりぎりとぶつかって不快な音を立てる。
肺がダメになったのか、もう死んでしまったのか、いつのまにか聞こえなくなった少年の音。
突き刺されるたびに、だらんと垂れた腕が小刻みに動いていた。

「うっ……」

口を押さえトイレに駆け込む。
体がだるくトイレまで行くのだけでしんどかった。

昨日の夜から何も食べていない胃の中からは胃液しか出てこない。
その不快感で脱力してトイレに寄りかかる。
口元を拭く気力さえなかった。

「海鈴。いつまで寝てるの?ピアノ教室も行けないの?」

1階から母の呼ぶ声が聞こえる。

そうだった。
17:00からピアノだったんだった。
行かないと。

そう思って手を動かそうとしても、動かない。
声も出せなかった。

「はぁ……。
1日でも休むと、元に戻るのに3日はかかるわよ。」

それっきり足音は遠ざかっていった。

トイレットペーパーで口元を拭い、トイレを流す。

動けない自分の体が悔しくて涙が出てくる。
きっと自分が弱いからこうなってるんだろう。

……強くならなくちゃ。
そう思った。






次の日は学校に向かおうとした。

着替えに袖を通し、朝ごはんを食べて、吐いた。

歩きながら座って授業を受ける自分を想像して、気分が悪くなった。

道端に座り込む。
道ゆく人は奇怪なものを見る目をしながら横を歩いていく。

誰も助けてくれない。
当然か。
もし自分が同じ立場でも助けない。

座っていると、あの時の光景がフラッシュバックする。

とにかく、動いていたい。

ふらふらとあてどなく走ることしかできなかった。




いつのまにか河川敷についていた。
風が気持ちよく、少し座っていても平気だった。

呼吸を整えながら伸びをする。
ずいぶん長いこと伸ばしていなかった身体はバキバキ音を立てた。

その音で一瞬思い出しそうになった光景も、風が運んでくれる。
落ち着く場所だった。

突然、怒声が聞こえた。
近くに不良がいるらしい。
驚いて少し後ずさろうとした時、コートのポケットが重いことに気がついた。

何度も失敗しながらようやくポケットの中に手を入れて重い何かを掴み出す。

金色の懐中時計だった。
リューズを押してみる。
綺麗な装飾を施したそれは、律儀に針を進めている。

思い出した。

あの夜、必死に走り続けた道の先で、おじいさんにもらったのだった。

80過ぎくらいのヨボヨボのおじいさんだった。
赤いマフラーを巻いているのが特徴的だった。

街灯の下で、私を待っていたかのようにこれを手に握らせた。

そして掠れた声で言ったのだ。

「リューズを引け。
時間が戻る。」

そしておじいさんは一度だけ私を抱きしめると、ふらふらとどこかへ消えたのだった。

そんな時計が今、私の手元にある。

リューズをひく。
時間が戻る。

正直本当だとは思っていない。
でも引いたらきっと何かが起こる。
それは怖かった。

リューズに手をかける。
……手が震える。
リューズをつまんだその手は、ぴくりとも動かなかった。

そうだ。
一旦おじいさんに話を聞こう。
そうすればきっと、何かわかるはず。

……一昨日の晩の場所に、もう一回行こう。

覚悟を決めて立ち上がった時だった。

「ちっ。あのジジイ、なんも持ってなかったっすね。」

左前方の方で声が聞こえた。

「……うるせぇ。
今日中に10万揃えられなかったら、どうなるか分かってんだろうな。」
「……すんません。」

声が遠ざかっていく。

風がざわざわと頬を撫でる。
背中が冷たくなった。

関係ない。
頭ではそう思っていても最悪の想像が頭から離れない。

震える足を動かしてゆっくりと男たちがいた場所へ歩いていく。

橋の下。
川の流れも穏やかで、ほぼ無音と言って差し支えないその場所はかえって不気味だった。

ゆっくりと覗き込む。


……人が倒れていた。

一目ですぐわかった。
赤いマフラーが見えたのだ。

足や腕は肌が露出してところどころ内出血で青くなっていた。
身体は服で隠れて見えなかったが、この服の乱れを見ると何度殴られたかわからない。

そして、顔は歪んでいた。
右側の上唇がめくれて、歯が見えていた。
頭蓋骨が一部歪んで、顔の形が歪に見える。

吐き気が込み上げてくる。

必死で耐えた。
外だから。トイレがないから。
路上で吐くわけにはいかないと思って我慢した。

涙が溢れてきた。
私が何をしただろう。
……もしも天罰だというのなら、私の犯した罪を教えてほしい。

もう散々だ。
何かが変わるなら、なんでもいい。
私は乱暴にコートから懐中時計を引っこ抜き、リューズに手をかける。

そして思いっきりひいた。

【カチリ】

途端に音が消えた。

そしてさっきまでの吐き気が、嫌悪感が、悲しみが、怒りが、嘘のように消え去った。

時計の針が左向きに回り出す。

カチリ、カチリと1秒ずつ。
ゆっくりと時を戻すのだ。

……本当に戻っている。
驚きもあったが何故かとても冷静だった。

私も少しずつさっきまで座っていた場所に戻っていく。
歩いていないのに不思議な感覚だ。

そして。
不良たちが後ろ歩きに橋の下まで戻っていく。

……助けるべきだ。

真っ先に思った。

でも、あの不良たちには敵わない。
きっと行っても共々殺される。

それにあの人が襲われる前に逃しても、ホームレスなら帰る場所がない。
どこにも逃すことができない。

私は目を閉じて、橋に背を向けた。

なら、もう1人の方を。
刺されたあの少年は、高校の制服を着ていた。

きっと帰る家がある。

あの子が助けに来る前に、あの道を通らないようにすれば。

きっと私たちは助かる。

「逃げてっ。」

そう言った少年の声が想起される。

助けてくれてありがとう。
今度は私が、あなたを助けるから。

カチリ。
カチリ。

時計はゆっくりと動き続ける。

……橋はどんどん、遠ざかっていった。





関連:旅路の果てに こんな夢を見た

2/6/2023, 1:52:37 PM