黒神

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こんなはずではなかったと、何度思惟したことだろう。
田舎育ちの自分が老舗一流ホテルに就職できただけでも奇跡に近いのに、たった一度ヘルプに入った34階のレストランへ正式な異動を言い渡される日が来たなんて、晴天の霹靂すぎて全く頭か追いつかない。
天井から下がる金色のシャンデリアも、光沢を放つ純白のテーブルクロスも、銀食器も、平凡なドアマンとして勤めるだけでも精一杯の日々を送っていた庶民の僕には分不相応極まりなくて、そら恐ろしい。
何よりも苦手に思うのは満天の星……ではなく、地上の灯りだ。
途切れないテールランプも定期的に色を変える信号も、賑やかな看板や無表情な四角いビルの無数の窓も、みんなみんな、地球のエネルギーを不当に奪って煌めいているように思えてならない。
自分もそんなふうに生きていることに違いはないのだけれど、高所に上がらなければ普段は意識せずに済むことで……。
──あ。
夜景を見下ろす大きな窓に戸惑う彼が目に入ったのは、偶然だ。
不釣り合いな職務に困惑している僕だからこそ、彼の緊張を察することができたのだろう。
濃紺のスーツに細い身体を包んだ青年は僕と変わらぬ年頃に見える。
照明に透けそうな薄い茶色の髪は長く、首の後ろで束ねられて背に流れている。甘く整った顔立ち、白皙の肌。卓上に置いた両手の指が絡んだり解れたりしながら、誰かを待っている。
──綺麗なひと……。
そう思うと同時に、僕の背後で空気が揺らいだ。
こちらへ向いた青年の清廉な顔が大輪の花のように輝く。
僕を追越して彼のテーブルへと歩み寄ってゆく恋人へ、澄んだ眼差しが注がれていく。
──こんなはずでは。

何度も思惟したことをまた繰り返し、僕は刹那の一目惚れを飲み込んだ。

By.龍月
Title¦これは失恋の物語。はじまりは、星が輝くレストランにて。

6/3/2022, 12:02:23 PM