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「風のいたずら」

春風が街中を駆け巡る。
四月上旬のまだ寒さの残るこの季節が、体の熱を奪う。
悴んだ指を口の前に持ってきては何度も吐息で温めていく。

僕は〇〇小学校前の校門で甥っ子の悟を待っていた。
今朝、妹の渚から連絡があった。
「お兄ちゃん今日暇?時間があったら悟のお迎えに行って欲しいんだけど。」
妹の渚は次男の明を出産したばかりだ。とても忙しい。
そこで僕はよく長男の悟の世話を任される。

校門の外から校舎を見る。
悟はまだ出てこない。校門を隔てた駐車場に並んだ先生達の車を見ていると働いていたときを思い出す。
僕は今、求職活動中の身だ。
前職は上司のパワハラに屈し、辞めた。それだけじゃない。
明らかに損しかない金融商品をあれこれ理由をつけて利用者に販売していく仕事が僕には合わなかった。

僕の見た目と話し方は高齢者に受けが良かったのか、僕の勧めた金融商品はよく売れた。
僕が大学を卒業したばかりの何も知らない新人にも関わらずだ。
営業成績が良かった。それがいけなかったのかもしれない。
上司は質の悪い金融商品を売りつけるように僕に要求し始めた。
僕はもちろん反対した。

「仕事を舐めるな。」
上司の怒号が社内に響く。誰も
仲裁してはくれない。
僕は渋々承諾した。

リーマンショックが起こった。
利用者が僕のところに詰め寄る。
「君を信じて買ったのに、大損したぞ。」
僕のせいで生活が一変した高齢男性から泣きながら告げられた言葉が未だに鼓膜を震わす。

上司に報告すると「そのうち慣れる」と鋭い目つきで告げられた。
彼の言う通りだった。
利用者の悲痛の叫びも言葉として意味をなさず、黒板を爪で引っ掻いたときの雑音のように認識されるようになった。

働き始めてから八度目の春が訪れた。
ある朝、目を覚ましてもベッドからなかなか起き上がれなかった。
無理やり着替えを済ませ、仕事に向かおうと玄関のドアノブに手をかけた瞬間に電流が走った。僕は吐いた。

体調不良の原因を探り様々な病院を受診した。どこも異常なしだった。行き着いた先は心療内科だった。
会社に届けるための病院からの診断書を見ると震えた。僕には縁がないものだと思われていた文字列が並んでいた。
会社を辞めようと決意した。
このままではきっと僕は完全に壊れる。

会社を辞めた僕は両親のもとで静養することにした。
高齢の両親は僕の帰郷を歓迎してくれた。ゴミ捨てや重い荷物運び、買い出し、病院への送迎や付き添いなどの日々の雑務が荒んだ心に潤いを与えてくれた。

僕に決定的な変化を与えてくれたのは悟が産まれたことだ。
渚から「抱っこしてみる?」と言われて悟を抱っこした瞬間、なぜだか涙がこぼれた。
僕の中にある人間としての温かさが戻った感じがした。

だからだろうか、僕が売りつけた金融商品で損をした人たちの悲痛の叫びが意味として認識されるようになった。
申し訳なさで僕は泣いた。
自分の部屋の中で何度も土下座をした。

渚がよく悟の写真を送ってくれるようになった。その写真を見ていると、生きる希望が湧いた。
いつのまにか悟は僕の生きる理由になっていた。

季節は巡り、悟は小学校に入学した。僕の悟を大切に思う気持ちは増すばかりだ。
悟に関することには積極的に携わってきた。

悟が校舎から出てきた。
「今日はママはいないの?」
「うん。今日はおじさんがお迎えだよ。」
風がまた吹いてきた。木の葉が悟の周りを飛んでいく。
「風がいたずらをしてるね。」
純粋な悟らしい表現だ。

悟がどんどん成長している。
僕も負けずに前に進んでいこうと思う。
そして、自分の過去にきちんと向き合い、誰か人のためになるような生き方をしたい。そう考えるようになった。

1/17/2025, 1:20:13 PM