「っ!どうした?どこか痛む?誰かに酷い事された?それとも嫌な事あった?」
はらはらと涙を流す娘に、どうすれば良いのか分からず矢継ぎ早に問いかける。
朝はいつも通りだったはず。いつものようにはにかみながらおはようの挨拶をして、頬にキスをくれた。
朝ごはんに出した人参はまだ苦手で顔をしかめてはいたけれど、泣いてはいなかった。むしろ残さず食べたからたくさん褒めて、デザートの苺をひとつあげると嬉しそうににこにこしていたはずで。
その後は、出掛けるのだと準備の為に部屋に戻り、そして、それから、
「ヒサメ、落ち着いて」
「シオンっ、だって…!」
「だってじゃない。それじゃあ、シロが何も話せないよ」
軽く頭を叩かれて、我に帰る。一呼吸おいて娘と視線を合わせる為に膝をつくと、赤朽葉色の瞳が困惑したように揺れた。
「ごめんな。パパ、ちょっとびっくりしたんだ」
「だいじょうぶ。えと、痛いとこ、ないよ。お部屋にいたから、ひどいこともないよ」
「そっか。じゃあ、泣いていた理由、パパにお話できる?」
「ん…これ」
おずおずと差し出されたのは、月と星の飾りのついた髪飾り。
誕生日のプレゼントだったそれは、見ると星の部分が少しだけ欠けてしまっていた。
「さっきね、手を滑らせて落としてしまったの。その時にね、少し欠けちゃって」
「お父さんからもらった大切な髪かざり、壊してごめんなさい」
静かに泣く娘の仕草が、その理由が愛おしい。
たまらなくなって、思わずその小さな体を抱き締めた。
「わざとじゃないんだから謝らないで。いい子だから、ね?」
「でも」
「それに、ちょっと欠けたくらいだから、後でパパがちゃあんと直しておいてあげる」
目尻に口付けて涙を拭う。
「本当に?」
「本当に。だから、そろそろ泣き止もうな」
優しく背を撫でると、落ち着いたのかふわりと笑う。
立ち上がり髪飾りを受け取れば、娘は嬉しそうに妻の側へ行き抱きついた。
「よかったね。クロノくんが褒めてくれた大切な髪飾りだったもんね」
「うんっ!」
にこにこと笑い合う2人はとても微笑ましいものだが、その会話の内容に眉を顰める。
今、とても、聞きたくない名前が出てきたような。
「ほら、そろそろ行かないと。クロノくん、待っているんでしょ?」
「うん…いってきます。お母さん、お父さん」
笑顔で家を出る娘の後ろ姿を、複雑な気持ちで見送りながら。
隣にきた妻を、じとりと睨め付けた。
「ヒサメからもらった大切なプレゼントと思っているのは本当だよ。それを好きな子が褒めてくれて、さらに大切な宝物になっただけ」
恨みがましい視線など気にせず、妻は笑う。
「クロノって、あのいつもシロに引っ付いてるやつのこと?」
「手を繋いでいるだけだよ。私達の時と変わらないでしょ」
「あいつ、気に入らない」
「親バカ」
娘より2つ年上の少年を思い浮かべ、気分が沈む。
妻は気にも留めていないが、父親の立場からすると大事な娘に男が気安く触れているのは面白くない。
それに、
「それに、あいつはいつかシロの手を離す。自分とシロを天秤にかけて、自分を選ぶ気がする」
根拠はない。けれど遠くない未来に、少年は大事な娘を置いていくような気がした。
「大丈夫だよ。もしそうなったとしても、それは2人で考えて決めた答えだから。1人だけで決めて振り回した誰かさんとは違うよ?」
「…うっ…ごめん」
揶揄い混じりの妻の言葉が身に刺さる。
思わず謝罪すると、彼女は優しく笑い手を伸ばす。その手を取り抱き寄せれば、いつかと違い抵抗なく華奢な身体は腕の中に収まった。
「あの子達なら大丈夫。ちゃんと手を離せる、強い子だから。だから心配しないで」
「…シオンがそう言うなら」
「ふふ、本当に親バカね」
笑う彼女の手がいたずらに頬をつつく。その子供じみた仕草が愛おしく、そして何故か切なかった。
「約束、ちゃんと守ってね」
「分かってる。絶対に離さないし、何があっても守るから」
いつかの約束を口にして。
離れないようにと、強く抱き締め目を閉じた。
「…っ…ゆ、め…」
暖かい、残酷な夢を見た。
決して叶うはずのなかった、永遠に失われてしまった未来。
この暗く冷たい場所には酷く不釣り合いで、その愚かさに乾いた笑いが漏れる。
ここには何もない。手を伸ばして求めたものも置いてきたものさえ、何一つ。
ただ、この水底で朽ちていくのを待つだけだ。それがどれほど先の事なのかは、人でなくなったこの身には最早分かりようはないが。
「…シオン」
逢いたくて、逢う事の叶わなかった愛しい人を想う。
もう一度だけで良かった。約束を守れない事を、ただ謝りたかった。
すべて叶いはしなかったけれど。
僅かに息を吐いて、目を閉じる。
水面越しに霞見える空に舞う、白い蝶の幻を見た気がした。
20240514 『失われた時間』
5/14/2024, 1:01:15 PM