黒山 治郎

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遠い春の思い出。
雛祭りの日には、ご近所の老夫婦から
必ずお宅へとお呼ばれされていた。

色鮮やかな雛あられに湯気の昇るお茶
立派に並べられた雛人形達を前に
老夫婦と折り紙と絵を楽しみ
私と姉は可愛がってもらっていた。

ある雛祭りの日に、つい口に出したのは
此処の子だったら良かったと言う言葉。

老夫婦は一瞬だけ顔を見合わせて
“私達の子供等はどれだけ離れようとも
あの子達の他には居ないんだ”と
そう、申し訳なさげに言っていた。

雛形である自分が川へと流されてゆく様な
抗う事も許されない突然の喪失感は
胸にぽっかりと穴を押し開け
濁流の如くに過ぎ去っていったが
依代だとしても良くしてくれた老夫婦が
少しでも不幸を避けて幸せであってくれるなら
この時間だけは幸せに盲目であろうと思った。

その後、何度もお呼ばれはすれど
そう言った言葉は二度と口にしなかった。

そして、最後に会った時
老夫婦は、どちらも安らかな顔で
遠くに離れ住んでいたであろう家族に
慈しまれ惜しまれつつ、かこまれて
屋根の下に降る暖かな雨に見送られていった。

もう会えはしないが、あの時の喪失感は
知る必要のある痛みであったんだと
私は今でも、そう感じているよ。

ー 遠い日の記憶 ー

7/18/2024, 9:54:59 AM