『手紙の行方』
名を忘れ去られた街の、戦火に焼かれず残った唯一の建築物。
仮に《塔》とだけ、呼ぶとしようか。
地に近い階層は掠奪にあったのだろうか、もとからなのか、まったくのがらんどうだ。しかし街の廃屋と違って火の手のあがった痕跡はない。
かれはゆっくりと螺旋階段をあがっていった。
かれをここに呼んだのはかれの師からの言伝だった。
年の暮れる頃合いの、真夜中よりわずかに遅い時間。そんな日時の指定があった。そうでなければさすがにこの廃墟をこんな夜ふけに訪れるはずもない。
師の名を《虚ろの翅》という。
魔術師として格別の名を残したわけではない。喧嘩っ早いたちではなく、売られた喧嘩ものらりくらりと躱すことがほとんどだった。しかし躱しきれなかった喧嘩に負けたことはなかった。
酒好きの飄々とした男だった。
最期は月に見惚れて川に落ち、溺れ死んだと人伝に聞いた。酒場からの帰り道だったと。師匠らしい死にかただと、かれは思った。
満月を少し過ぎた月が一番いい。
師はそう主張した。酒の席をつきあうとき、何回か出た話題だ。
そのくらいの月が傾く頃に家路につく、それが俺にはちょうどいい酔い加減なんだよ、と。
声の調子もよく覚えている。懐かしい。師が命を落としたと、まだ実感が湧かない。
もう少しくらい、酒につきあってもよかっただろう。そんな後悔が過ぎる。
追憶に浸るうちに、足は《塔》の最上階についた。
小部屋の扉をあける。
師が《千年の都》から住まいを移した際に、物置として借りた部屋だった。新しい住まいは手狭だったから、と師は語っていた。
小部屋には荒らされた様子がない。
ひっそりと静まり、冷えた空気は乾いている。もう何十年とひとが立ち入ったことなどない風情だ。
下にひろがる街を襲った戦禍は別世界の出来事だとでも語るように。
(当然だ)
かれは師の顔を、声を、思い出しながら部屋のなかに進む。
(あんたの得意は《結界》だったからな……師匠)
奥の机。
そこに一通の封書が置かれていた。
かれはそれを手に取った。
封を切るか、わずかに迷った。封筒に宛名はない。
この師の《結界》が、訪れを許しているのは弟子である自分だけだと、かれにはわかっている。それが何よりの宛名であることもわかる。
それでも迷いがあったのは、自分が不肖の弟子だったと自覚があるからだ。
師が自分に何かを残す理由があるだろうか?
迷い、やがて決意して封を破る。
不肖の弟子だった。それは事実だ。だが師に何かを返せるなら、この手紙を読むこともまたひとつの返礼になるだろう。何が書かれていても受け容れるしかない。
封筒から紙を取り出す。二枚。
一枚めに綴られていたのは短い一文だった。
――天窓をあけてくれ。
かれは書かれているとおり天井の窓をあけてみた。
月が夜空に鎮まっている。
かれの唇が笑みのかたちに歪む。
もう一枚の便箋に眼を落とす。予想どおりだった。
――きれいなもんだろ?
それだけ。
何の遺言でもない。
いや、何よりの遺言かもしれない。
師に予知の才まであったとは。それともただの偶然なのかもしれないが。
かれは『遺書』を丁寧に封筒に戻した。
最期の言葉は自分さえ知っていればいい。
そう笑って。
手紙が火に包まれる。
蒼褪めた魔術の焔だった。
火は手紙だけを灰にすると不意に消える。
「師匠。魔術師《虚ろの翅》。あんたは、俺にとって最高の魔術師だった」
弟子として訣別を囁いた。
「やすらかに」
2/18/2025, 12:21:21 PM