◎ひとひら
#66
一枚のビラを握りしめて、
廃墟も同然の劇場を見上げる。
”今宵、貴方を歪に捻れた美しき世界へと
ご招待いたしましょう”
そんな怪しい文言が真っ赤な字で
書かれた真っ黒な紙を拾ったのは明朝。
奇妙なほどに人気のない道だった。
興味が湧いて、指定された手順に沿って
来たのだが、道中では猫にすら出会わな
かった。
「誰もいないのか?」
錠が壊れた扉を押し退けて薄暗いホールを覗き込む。
久しく誰も出入りしていないのか、動いた空気に埃が舞い上がる。
埃っぽい空気が満ちた空間に思わず顔を
しかめると、笑い声が耳をくすぐって横を通り抜けていった。
「──なんだ、今の」
かぶりを振ってなんとか中に一歩
踏み出した。
奥へ奥へと進むうちに不気味さはどんどん増していく。
ぞわぞわと背中が粟立つ感覚に、
されど高揚しながら観客席の中央までやってきた。
座席の埃を払って腰掛けると、舞台袖から男がひとり現れた。
「ん〜〜ん、ん、ん。ようこそいらっしゃいました、お客様ァ」
男の目線があちらこちらに向かって、
最後に此方へと定まった。
男はニタリと笑って会釈し、どこか蛇に
似た薄気味悪い雰囲気を纏って歩み寄り、こちらの手をとった。
近くに寄られてわかったが、この男、
かなりの長身である。
「こんなに幼い子が来るとはねェ。拙は予想だにしていなかった」
品定めをするように見つめられて、
居心地が悪い。
睨め付けてやると男はわざとらしく
大袈裟に飛び退いた。
「や、やや、すみませんン。久々のお客様があまりに可愛らしくて、つい」
「俺、男なんだけど」
「"可愛い"に性別が関係あるのです?」
どこか俗世離れしたような言動で、
男は燕尾服の内側に手を差し込んだ。
「このナイフをお持ちになって。失くしてはいけませんよ、これはァ通行手形なのです」
クスクスと笑うその声は先ほど聞いた
笑い声と同じもの。
生きとし生けるものを嘲笑う声だ。
徐々に血の気が失せていく。
恐ろしくて仕方がないのに、自身の意思に反して体は動かない。
「怖がらないで。すぐに楽になりますからね」
捻れたナイフの周辺の空間が歪む。
その先にきらきらと輝く何かが見えた。
「原初の混沌です。さぁ、帰りましょう」
かつて神も大地も海も人も無かった、
無の時代。
そんな次元に通じる穴は、寂れた劇場を
介してひとひらの夢の中にある。
4/14/2025, 12:24:37 PM