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私は小さい頃に神隠しにあったことがある。

8月の終わりだった。蝉の鳴き声もどこか疲れの滲みはじめた夏の午後、友達と公園で遊んでいて、
その日も夕暮れ時のチャイムで帰るはずだった。

いつまでも家につかないことに気づいたときには、もう公園にも戻れなくなっていた。
見慣れた景色をたどり、用水路の音を聞き、草葉を踏みしだいて歩けども、まるで知らない土地に取り残され、私の存在が切り離されてしまっているかのような、そんな感覚に落ちた。

気づけば涙をこぼしていたし、呼吸も荒くなっていき、沈まない夕日を背に私はついに座りこんだ。
蝉の声だけがじわじわと、お腹の底まで鳴り響く。もう足を動かせない。


「迷ってしまったのか」


その時、突然声がふってきた。思わず顔をあげると若い男の人が私を見下ろしていた。白のブラウスシャツの、あたり見たことのない格好だった。そのままそっとしゃがみこんで、どこか控えめな目線があう。その人のアイスグレーの瞳に私が映る。


「君は綺麗な子だから隠されてしまったんだろう。おいで。」


そういって差しのべられた白い手を、恐る恐るとった。触れた指先の冷たさが巡るように広がり、私の血管を通して心臓にまで流れ込んでくるみたいだった。それがなぜか満ち足りた気持ちにさせられて、いつのまにか涙はやんでいた。

今まで、私はどこに行っても「かわいい」と褒められてきた。それは幼ながらに自覚していたけれど、「綺麗」と言われたことは一度もなかった。真剣な眼差しが焼きついてほてった頬を、夏の終わりの風が撫でてゆく。

その人はとてもいい匂いがした。さくさくと草を踏みしだく音も心地よく、慈しむ響きをもっているように感じた。私はいつしか、ずっとこの時間が続いてほしいと思っていた。

しばらくそうして手を引かれていると、「この辺りでいいだろう」という呟きとともに、繋がれた手が綻びる気配がした。


「ここで見たことや感じたことは、すべて忘れるんだよ。いいね?そうでないと、いずれ迎えにきてしまうことになるからね。」

「どういうこと?」

「得たものは、何も持ち帰らないように、ということ。もっとも、みな自然と忘れてしまうから大丈夫だとは思うが。」


その瞬間に、するりと指先が離れていった。蜘蛛の糸のような、細い光の筋を残して。


「さようなら、お嬢さん」


途端に身体が重くなり、思わずよろけてしまう。いつもの帰り道の風景だ。振り返ってみても、彼の姿はもうどこにもなかった。

あれから月日は流れた。結局、私は3ヶ月ものあいだ行方不明になっていたらしい。今までどこにいたのか、何をしていたのかと散々聞かれたが、何も覚えていないと私は言った。

何ごともなかったかのようにして日常が過ぎてゆく。中学、高校と進学していくうちに、私はますます変に注目を浴びるようになった。他校の男子生徒からも告白されるようになり、周りからは「かわいい」「美人」と相変わらず評価され続ける。

それでも、誰のどんな言葉でも埋められない、いつまでも忘れられない記憶がある。

8月の終わり、白い指先、アイスグレーの瞳。私の身体をゆるやかに侵食した、物哀しい冷たさ。
走馬灯のように淡くゆらめき宙を巡る。

あの人は呆れるだろうか。それとも。

誰にも言えない、秘密の恋。
あの人の迎えは、まだ来ない。

                  secret love
   




9/4/2025, 8:17:21 AM