『鏡の向こうで待っていた』
僕は引っ越してからずっと、夜になると“気配”に悩まされていた。
神戸の小さなワンルーム。入口のすぐ横に姿見の鏡があり、それがどうにも落ち着かない。
朝は何ともない。
だが夜、部屋の灯りを落として寝ようとすると、鏡の表面が、ほんの僅かに――呼吸するように曇る。
最初は湿気だと思った。
でも、僕が近づくと曇りはすぐに引く。
壁も床も乾いている。
冷房もつけていない。
鏡だけが、息を吸って、吐いている。
そんな馬鹿な。
そう思いながらも、視線をそらせない自分がいた。
■1週間目
深夜2時。寝返りを打ったとき、鏡の方から「コン」と硬い音がした。
固いもの同士がぶつかるような、小さな衝撃音。
――部屋には僕しかいない。
電気をつけて確認したが、当然何もない。
ただ鏡だけが、じわりと曇っていた。
その曇りは、まるで手のひらを押し付けた跡のように見えた。
■2週間目
仕事帰り、ふと鏡を見ると、曇りは“内側”に広がっていた。
僕の部屋ではない。
鏡の奥の空間が、湿っている。
手の形だけでなく、肩、頭らしき丸みまで浮かんでいる。
まるで誰かが、鏡の向こう側で佇んでいるかのように。
ぞく、と背中に氷の爪が触れた。
鏡に近づいて息を止めたとき、曇りの輪郭が、ゆっくりと動いた。
――中の人間が、こちらに顔を寄せてきている。
そこで僕はやっと気づいた。
曇った鏡は、僕の姿を映していなかった。
鏡の表面は曇っていない。
奥が曇っているのだ。
映り込むはずの僕の影は消え、
代わりに“向こう側”の誰かだけが、輪郭を濃くしていた。
■3週間目
その夜、ついに鏡の奥の曇りが澄み、向こうの人物の形がはっきりした。
フードをかぶったような曲線の影。
顔はぼやけて見えない。
姿勢は、鏡越しの僕と同じ高さで、同じ角度。
まるで――
僕の行動を真似しているように見えた。
恐怖が喉を塞いで、声が出ない。
鏡の前から逃げようと後ずさると、向こうの影もまったく同じタイミングで後ずさる。
その瞬間、鏡の真ん中、影の“顔の位置”に、黒い穴が開いた。
ゆっくり、湿った息が漏れてくる。
「……み え て る」
聞こえたのではない。
頭の内側で、直接囁かれた。
■4週間目・深夜3時
ついに鏡が――曇らなくなった。
澄み切った表面。
でも、僕だけ映らない。
その代わりに映っているのは、
鏡の奥からこちらをのぞく“もう一人の僕”。
顔のない僕。
呼吸だけが、かすかに揺れている。
動くたび、そいつは完全に同期してくる。
ほんの半歩、僕が遅れれば、向こうが先に動く。
もう鏡ではない。
向こうに“何か”が僕の形を使っている。
逃げるために鏡を布で覆った夜、布の裏側から「コン」と音がした。
あの日と同じ、軽い衝撃。
寝られずに布越しの鏡を見つめていると、
布の中央が、ゆっくりと内側から押された。
指の形をした凹みが、五本。
布の表面に浮かんだ指先が、
ゆっくりと横にずれて、こちらに手招きした。
11/21/2025, 2:10:05 PM