#007 『画家の告白』
ややFT/微ホラー
田舎暮らしに憧れて越して三月目、近くに高名な画家が住んでいると聞いて、会いに行くことにした。もっと早くに知りたかったとぼやいたら、せっかくのスローライフが台無しだと妻は言う。
「仕事人間に戻られちゃたまんないわ」
もっともな言い分かと主張を引っ込め、森を訪ねる許可をもらった。
村外れの一軒家を通り過ぎた時、どこまで行くねと声をかけられる。画家に会いに行くと答えると、住人はカンカン帽を持ち上げてしかめっ面をした。
「画家先生ねえ。なんの用事があるんだい」
「用事ってわけじゃないけど、ぼく、学芸員だったんです。こっちへ越して来る前ね」
「へぇ、学芸員。学者さん?」
否定も肯定も面倒で、適当に返事を濁しておいた。
「関わらない方がいいよ。悪いことは言わないからさ」
多くは語らない住人にあれこれ尋ねることはせず、森へと踏み入ることにした。
そこは静かな森だった。人の気配がないのは当然としても、小動物を見かけることもなく、小鳥のさえずりさえ聞こえない。
風がそよげば木の葉は揺れる。初夏の爽やかな風は心地いい。だが他に音を立てるものは何もなく、土を踏む足音が奇妙なほどに耳に障る。
かの画家を一躍有名にしたのは『最初の沈黙』という作品だったことを思い出していた。画面いっぱいに描かれた女性の魅惑的な唇とその前に立てられた指。顔の上半分が帽子で隠され、読めない表情。ぷっくりと艶のある唇は今にも動き出しそうで、じっと見入ってしまったものだった。
森には生き物の気配がなく、見回してみれば立ち枯れた木が多い。
画家の絵にあった、どちらかと言えば都会的な空気と艶かしい生命力。森からはそのどちらも感じとれない。
ぼくとは逆に、都会への憧れを形にしたのだろうか。不思議に思いながら静かな森を進むと、ぽつんと小さな家にたどりついた。土壁に茅葺き屋根の素朴な家は、やはり絵の印象にはほど遠い。
人物像をまったく知らないと今さらながら思い当たった。村外れの住人の様子を思い出す。村人とは交流せず、噂話にも上がらない。よほど偏屈な変わり者なのだろうか。
にわかに緊張を覚えながら家に近づくと、ノックする前に扉が開いた。現れたのは年嵩の男で中肉中背、気難しそうな印象はない。
挨拶がてら自己紹介すると、老画家は破顔した。実に人のよさそうな笑顔で何度もうなずき、訪問の礼を言い、家の中へと招いてくれる。
「お茶を淹れましょう。気の利いた菓子はないが、木の実の砂糖漬けも美味いもんです」
誘われるまま踏み入った家には、所狭しとキャンバスが並べられていた。顔の下半分しか描かない画家と思っていたが、どうやらそうではないらしい。ただし、並ぶ絵はどれも未完成だった。
「いや、お恥ずかしい。描きかけばかりがあふれて、アトリエには収まらなくなって」
老画家は困り顔で笑う。いかにも人懐っこそうな笑顔だ。村外れの住人が見たら考えを変えるのではないか。
茶が入るのを待つ間、椅子には座らず絵を見せてもらうことにした。少女から大人の女性まで、何層にも絵具を重ねた筆致。瞳の中とあの唇の艶入れを残すばかりの絵の数々。肌の塗りは十分に瑞々しくて、艶さえ乗れば今にも喋り出しそうだ。
艶入れは得意だろうに、こだわりが強すぎて塗れなくなったのだろうか。瞳の光はどうだろう。彼の描く瞳は一度も見たことがない。
完成品を想像しながらくるりと向き直った時、窓越しの風景に違和感を覚えた。木々は青々と生い茂り、太い幹をリスが駆け上がる。窓際には蝶々がひらめき、その向こうには鮮やかな花々が揺れる。豊かな茂みからウサギが顔を出し、木漏れ日は大地に落ちてキラキラ輝く。
窓の向こうに、通り抜けてきたはずの枯れた森はなかった。
嫌な予感が込み上げる。家に入ってはいけなかったかもしれない。
窓の外で子供の笑い声が弾けた。年端もいかない子供が駆け抜けていく。
「あれはね、娘です。もうとっくに大人になっていたはずだが、今でも幼い」
唐突に後ろから声をかけられ、心臓が口から飛び出すかと思うほどに驚いた。
「お茶が入りましたよ。なに、飲んでもなんのことはありません」
老画家の声にも表情にも、暗い影が乗ったようだった。
老画家は客人を通り越してテーブルに茶器を置く。背を丸めた姿は寂しく老い、無数の後悔を重く背負うかのよう。
「昔はね。気づいてもおりませんでした。気のせいだと思っていた。明日には開くはずだった蕾が落ちようと、小鳥が力尽きて地に伏せようと」
老画家は音を立てて椅子を引き、重い体をひきずるように回り込んで腰を下ろした。
「あたしは描いてはならんのです。もっと早くに気がつくべきだった。雫で描いている自覚なぞありませんでしたよ」
返事を求めもせず、まるで独白のように老画家は告白する。
「雫が乗るとね、まるで生きもののように動くんです。早く筆を降りたい、絵になりたいとね。おかしいと気づいたのは、体力が自慢の家内が突然倒れてからでした」
それでは、突然絵を発表しなくなったのは━━。
問いは言葉にはならなかった。ただ身体中の血がざわつき、駆け巡るのを感じるばかり。
「地獄の茶でも果物でもない。飲み食いしても何も起こりはせんでしょう。ただ、長居はするべきではないかもしれない」
老画家の忠告に曖昧な声で応じ、ふらふらと玄関先へと向かう。
後方から風がささやくような音がいくつも聞こえた気がしたが、振り返ることはできなかった。家にいるのは老画家一人のはずなのに、無数の視線を注がれているような気分だった。
窓の外、楽しそうに笑い転げる子供の声がする。
込み上げる予感を押し殺し、生唾を飲み込み、怖々開けた扉の向こうには、寂れた森がただ広がっていた。
《了》
お題/雫
2023.04.21 こどー
4/21/2023, 2:13:06 PM