悪役令嬢

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『誰か』

「これでとどめだ、ヴァラク」

激しい死闘の末、ライオカスは魔王ヴァラクを聖石の祠に封じ込めることに成功した。血と汗に塗れた英雄の顔に、安堵の光が宿る。だが散り際、魔王は黒い血を吐きながら憎々しげに囁いた。

『いずれ貴様の愛するものを全て奪い、地の底へと叩き落としてやる』

――

古都エルドラン。純白の建物が立ち並び、
清らかな水路が街を巡り、花々が咲き誇る光の街。

塔の最上階から街を見下ろしながら、ライオカスは
己の誓いを忘れぬよう胸に刻んでいた。
――この街を必ず守る。己の命に代えても。

「父上、ここにおられましたか」

背後からかかる声に振り返れば、
息子のエディウスが立っていた。

「何か用か」
「急ぎではありません。ただ……久しぶりに、
二人で食事でもどうかと思いまして」

期待と緊張が入り混じる声で笑みを浮かべる息子。
だがライオカスは、わずかに目を伏せて首を振った。

「これから警備に向かう。ヴァラクの残滓は常に揺さぶりをかけてくる。休む暇はない」
「……ええ、けれど父上もお疲れでしょう。
少しは――」

エディウスはそっと手を伸ばし、父の肩に触れようとした。しかしライオカスは、それを避けるかのように身を引いた。

「用が済んだのなら、もう下がれ」

冷たい言葉に、息子の笑顔は凍りつく。
宙をさまよう指先。喉まで出かかった言葉は、
声にならなかった。

――

その夜、ライオカスは悪夢にうなされた。
街を覆い尽くす黒い影、炎に呑まれる建物、魔物の群れ、人々の叫び声――ヴァラク襲撃の日と同じ終焉の光景。

飛び起きた彼は窓の外を見た。
空は赤く染まり、黒煙が立ち上っている。

「まさか……」

ライオカスは外套も羽織らず飛び出した。

神殿にたどり着くと、入口の扉は開け放たれ、
警備の守り人たちは血を流し倒れていた。
幾重にも張られたはずの結界は、何者かの手によって解除され機能していない。

ライオカスは封印の間へと急いだ。
部屋の中央には祠と巨大な魔法陣が刻まれ、周囲には七つの結界石が配置されていたはずだ。
だが今、祠は打ち倒され、聖石は全て砕け散り、
魔法陣は黒く煤けていた。

「なんということだ……」

誰かが封印を解いた。一体誰が、これほどの魔力を持ち、この厳重な警備を潜り抜けられたというのか。

この場に立ち入れる者は限られている。
胸の奥に冷たい予感が広がった。

――

塔の最上階。

「ようやく来てくれましたね、父上」
「お前が封印を解いたのか」
「ええ」

エディウスは振り返り、微笑んだ。その顔はかつて父に褒められた少年の笑顔と同じでありながら、今は狂気に満ちていた。

「愚かな……お前にはこの街を守る者の血が流れているだろう!」
「そんなものに何の意味があるんです?」

エディウスの瞳が爛々と燃える。

「僕はただ、父上に見てほしかった。けれどあなたは、――誰か、名もない者のように僕を扱った」

ライオカスの胸に鈍痛が走る。思い出す。小さな手を取り、剣を教えた日々。母を亡くした子を支えると誓ったあの頃。だが、使命を理由に、いつしか彼を遠ざけていた。

「ある時、祠から声が聞こえました。ヴァラクは僕を理解してくれた。……あなたには決してできなかったことだ」

黒い霧が溢れ出し、エディウスの身体を包む。

「お前はヴァラクに唆されているんだ。正気に戻れ、エディウス!」

ライオカスは剣を抜くが、その手は震えていた。
目の前の存在は、魔王か。それとも息子か。

「あなたは何も知らない。誰のことも愛していないから」

――

やがて、ライオカスは血を流し、膝をついた。
エディウスは父の身体を抱き起こすと、崩壊する街を見せつけるように手すりへと連れて行く。

「ご覧ください、父上。かつてあなたが守り抜いた街の末路を」

空が裂け、川が血のように赤く染まり、純白の建物が炎に呑まれていく。平和の都は、一瞬にして混沌の牢獄へと変貌した。

『これから貴様の愛したものが失われていく様を、
我が隣で眺めるがいい』

永遠に――。
ヴァラクとエディウスの声が、重なり合う。

ライオカスはなおも剣を握ろうとしたが、もう腕に力は残っていない。ただ、血に濡れた唇から、ひとつの名だけがこぼれ落ちた。

「……エディウス……」

その声に、魔王の瞳がかすかに揺らめいた。

10/4/2025, 6:00:28 AM