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 澪子は雨に多少濡れようが気にしない性分だ。農作中に雨に打たれることは頻繁にあるし、小雨くらいなら我慢できる。
 しかし、今のような雨になれば別だった。慌てて近くの東屋らしき場所に走り寄った澪子を待ち受けていたのは、ベンチで横になっているやんごとないお方だった。
「え、太子殿下……?」
「……お見苦しいところを見せてしまいましたね」
 ゆっくり起き上がったのは、間違いない、将来帝になるだろう青年、橄欖太子だった。なぜどこにも護衛がいないのか、キョロキョロしている澪子に、どうかご内密に、と唇に人差し指を当てる太子。意外と不真面目な方なんだなあ、と思ったが、手に持っているのはいかにもお堅そうなタイトルの書物だった。
「だけどそろそろ戻らないとバレそうだな」
 送りましょうと言う太子の手には、傘がある。用意周到な太子は、本だけでなく傘も持ってきていた。
 断ることもできず、澪子は太子の左隣に立った。どうか美琴ちゃんに見られませんように、と祈りながら歩き始めた。
 当たり前のように歩き出したが、ふと、太子に傘を持たせるなんて失礼じゃないかと思った。そろっと右手を伸ばしかけたが、スッと避けられた……ように見えた。
「澪子さん、もう少し右に寄っても大丈夫ですよ。左肩、少し濡れてしまいましたよね」
 気が付かず申し訳ありませんと謝る太子に、傘を持つ役割を代わろうかと申し出るタイミングを失ってしまった。太子に遠慮していたのは本当だ。傘を差さずに土いじりをすることも多い澪子は、体が少し濡れてくらいで気にする性分でもない。が、太子がそのように気を遣われた以上、寄らないのもダメだよなと傘が守ってくれる範囲に左肩を入れた。
「中央の生活には慣れましたか」
「いやあムリで……あ」
 屋敷の裏庭でこっそり育てている作物に思いを馳せていた澪子はやらかした。慌てて取り繕う。
「最初は田舎から大都会に出てやっていけるのか不安でしたが、最近では鳳翔の本邸や帝央学舎の雰囲気にも慣れてきました。今は中央の生活を楽しんでいます」
「嘘ですよね」
 そっと横目で窺う。はっきり切り捨てた太子の表情は、嘘をつかれた?割に楽しそうに笑っている。怒っていないらしい。
「中央なんてやってられないあたし地元に帰りたい、本音はそうですよね」
「……すみません、嘘をつきました。中央とは永遠に分かち合えません」
「永遠!ははっ、永遠ときましたか!それは、澪子さんには申し訳ないことをしましたね」
 とりあえず怒ってないことに安堵した。そして、先ほどと違って微塵も申し訳なく思っていないらしい太子の様子に、地元に帰る道は開拓できないことを悟った。傘を半分貸してもらったり、濡れた左肩を気にしたりする優しさがあるのなら、澪子がそもそも中央に引っ越すこととなった諸悪の根源である婚約を解消してほしいが、そうする気はさらさらなさそうだ。
「澪子さんが中央と永遠に分かち合えない理由として、やはり、農芸や園芸を自由にできないことでしょうか」
「もちろんそれも大いに関係あります!中央は土いじりができる場所が少ないんです。それに、王夫妻や義理の兄弟は、私が本家所有の農地に出入りするのも良く思ってないらしく、行動を制限されました。だから最近は学舎の庭で綺麗な花の咲く薬草を植えてみたり、本邸の使われていない裏庭でこっそり野菜を育てたり、そんな感じで鬱憤を晴らしているので、もっと自由に使える土地が欲しいです」
「その秘密の行動、私に話しても大丈夫なの?」
「あっ、このこと本家の皆様には……」
「ふふっ」
 太子は笑っただけだった。
「あのう、育ち盛りの薬草や野菜の芽を抜かれることだけは避けたいので、本当にここだけの秘密にしてほしいのです」
 澪子の切実な願いが伝わったのか、太子は笑顔を引っ込めて神妙な顔つきで頷いた。
「わかりました、ここだけの話にします。しかし、澪子さんは嘘がつけない性格で明るい方ですね。裏表がなく、好きなことには一直線。だからこそ、先日の六花の顔合わせの時のように、公の場に長時間出席するのは難しいかもしれませんね」
 バレていたか。澪子は苦笑した。実家では、妃教育はおろか王女としての心構えなど大して教わっていなかった澪子は、中央の本家で初めてそういう上流階級らしい教育に触れた。おまけにこの性格だ。それらしく取り繕うことも危うい。先日の公的な会でも、義兄の監視下で最低限の挨拶を済ませた後、早々に退席してしまったのだ。この頃は、澪子の王女教育にやや諦めモードだった本家の皆様は、公式行事を経て「やはり本人が嫌がろうが逃げようがやるしかない」と火をつけてしまったらしい。お陰で、皆の目が厳しくなり、本邸に戻るのが億劫だ。
「そうですね、宮殿会場の妃の社交なんて考えただけで気が重いです」
 しかし、太子は真顔で、
「ああ、それは大丈夫ですよ。そういうのは美琴の役割だから」
 てっきり励まされるか笑われるかのどちらかだと思ったが、太子の予想外の言葉に、澪子は言葉を失った。
「美琴、さんの役割」 
 辛うじて出てきたのは、太子が先ほど言った言葉だった。
「はい。美琴は、生まれる前から将来の妃として相応しくあれと育てられてきました。私は、公的な社交において美琴に並び立つ者はいないと思っています」
「ずいぶん美琴さんを信頼しているのですね」
「美琴には、それこそ私が立太子に臨む以前から助けられてきました」
「大事にしないんですか?」
「え?」
「………………すみません。忘れてください、大事じゃないはずありませんよね。私妃どころかまだ王女としての立ち居振る舞いもよくわかってなくて、本家でも学舎でももう皆仕方ないわねって感じでフォローされることばかりですが、今の私のどこがダメだったのかも正直わからないときもあって。だけど、美琴ちゃんはこういうことをずっと、生まれる前からやってきたんですね」
 あ、雨小降りになりましたね。もう大丈夫です、傘を貸していただきありがとうございました。そう言って去ろうとしかけた澪子の手を太子が掴んだ。
「澪子さんは、帝の妃もしくは帝配がなぜ6人いると思いますか」
「……後継者を残すため」
 あるいは、政略結婚をした妃たちの中に、本当に好きな相手を紛れ込ませること。以前、太子が楽しそうに喋っていた相手は、物心つく前から妃になるべく育てられたお姫様ではなく、太子の同級生だといわれる背の高い女性だった。マーヤ、と彼女の愛称を呼んでいた。六人もいるのだから政略結婚とはそんなものだと澪子ですら思っているのだから、美琴は割り切っているに違いない。
 太子は軽く頷いた。
「もちろんそれもあります。しかし、私は、一人ではできないことを補い合うためだと思います。六人の配偶者を娶る六花制度の成り立ちは、帝が必要とする六つの役割を果たすことで帝国の発展に繋げることだと思っています」
「六つの役割」
「その役割が、美琴の妃然とした社交であり、澪子さんの持つ高い神力です。だから、あなたが美琴のように社交に特化しなくて良いと思っています」
 まあ、神殿の儀式に必要な所作を身につけてほしいですと付け足した太子の言葉に、澪子は追い打ちをかけられた。まだ料理やダンスがあって人と好きに喋っていい分、宮殿での社交の方が楽だ。
「雨、今度は上がりましたね」
 太子は傘を閉じた。相変わらず曇天だったが、雨は完全に止んでいた。
「ハウス栽培の逆ってありますか?」
「逆?」
 太子は傘を丁寧に畳みながら、
「暖かい地域で育つ食物を作る方法として、ビニールハウスや温室を利用した栽培方法がありますよね。その反対に、寒い地域で育つ野菜を暖かい土地で栽培する方法って何かありますか?」
「えっと……申し訳ありません。何処かにはあるかもしれませんが、寒暖差を利用した農業にはあまり詳しくなくて」
 言いながら、澪子は気になってきた。確かに、逆の方法はあまり聞かない気がする。もし、ハウス栽培の逆があるとしたら、熱を吸収するような感じで育てる……?ぐるぐる頭の中で考え始めた澪子の耳には、それ以降の太子との話を記憶していない。
 気がつけば、目的地に辿り着いていた。
「傘を貸していただきありがとうございました」
 今度こそお礼を言った澪子に、太子は笑いを噛み堪えながら、
「入内後の住まいになる宮、庭園ではなく農園にしてもいいですよ」
 と言い、澪子が思わずガッツポーズをしている姿を目に焼き付けて去っていった。

6/20/2023, 8:14:33 AM