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 だってイバリはそういうことをされていい女の子じゃなかったから、躊躇なく手を振り上げることができた。
 軽んじられていい女の子じゃなかったし、ましてや『馬鹿』なんていわれていい女の子じゃなかった。

 テルキに笑われた、とわかった途端、カッと顔が熱くなった。
 それでそのまま、イートインスペースの端で友だちとしゃべっていたテルキに、手元のお冷をひっかけて、レジにもどってきたのだった。

 バイトはクビになった。客に水をかけたから、それだけじゃない。遅刻と無断欠勤が、二回ずつあった。
 それに、その日は大雪で、そのくせ仕事が休みにならなかった大人たちが、大勢店にやってきた。店は大忙しだった。
 ドリンクを持ったまま転ぶなんて、成人した女の子がやっていいことじゃない。
 そのドリンクを浴びた世良先輩や、床を掃除してくれたナミ子さんは、

「疲れたんだよ」
「足は大丈夫?」

 といってくれて、悪天候に配達をするのが趣味でその場に偶然居合わせたウーバーさんはおろおろしていたけど、イバリ自身はもう挫けていた。

「テリヤキ。コーラ。あとナゲットでバーベキュー」

 とだけいって、スマホを突き出してきた客に、テキヤキバーガーのセットで、サイドメニューがナゲット、ソースがバーベキューソース、お飲み物がコーラですね、といったら、

「は?」

 と、怒鳴られたときにはもう、目の前が真っ赤だった。
 サイドメニューがポテトで、単品でナゲットと、ソースがバーベキューソースですね、と繰り返してスマホの決済画面のバーコードから会計を終えたとき、あとからポイントカードを出されたときには、責任者に言われずとも今月かぎりで辞めることを、心に決めていた。

 発注ミスで仕舞いきれない納品物で、狭い通路はもう一回り狭くなっていた。
 重たいダンボールの山に体当たりしながら、「お疲れさまです」「お疲れさまです」「お疲れさまです」と四方八方に挨拶しながら、従業員用扉を開ける。
 となりのダイソーとの壁で挟まれた通路から、もうひとつ従業員用扉を開けると、店の駐車場に出ることができた。
 イバリが歩くときだけいつも晴れていればいいのに、外に出たタイミングでさらさらと雪が降ってきた。

 ダイソーの横につけられた証明写真機の前で、溜まっている老人たちがいた。老人がふたりと、イバリの倍くらいの大人がひとりだ。
 イバリの制服を見て、すみませんと声をかけてきた。
 イバリは的確に証明写真機の使い方を教えた。
 そうしている間に、老人のうちのひとりが、

「この子は障がい者なんです」

 と、写真機の中に入った娘を差していった。
 言わなくていい、障がいって! と叫んだか、叫ばなかったかわからない。大きく息を吸い込んで、くらっときたときには、うしろにテルキが立っていた。
 テルキは、イバリの弟だ。
 ぼーっとしている間に、あとはイバリのテルキが入れ替わったみたいだった。

 ぜんぶはテルキが言ってくれた。もうちょっと椅子を高くしましょうとか、あと数分待ったら証明写真は出てくるのでとか、僕たちはこれでとか、お礼を言おうとする老人に、言わなくていいので、といって、イバリを連れて去った。

 脇の下を掴み、イバリを車に連れていくのを行くのを見て、あの人たちはなにを思っただろうか。
 イバリは、ほとんど抱き抱えるようにして、後部座席へ収納された。後部座席にはテルキが乗せてきてくれた歩行補助具があった。それを握りしめながら、イバリは、

「辞める!」

 と叫んだ。

「もう辞めるから!」
「叫ばないで、シートベルトして」
「みんな、わたしのことバカにしてる。わたしって、だれにもバカにされていい人間じゃないのに。なんで同情されなきゃいけないわけ? なんで怒鳴られなきゃいけないわけ?」
「だれもバカになんてしないよ。イバリなんか」

 シートベルトして、と再度テルキがいう。

「イバリをバカにしてるのは、イバリ自身だよ。……車出さないよ。早くシートベルトして。エンジンを動かさないと、イバリの足が冷えるよ。それで、転んだとき、足は?」
「同情とか!」
「どうでもいいから。早くして。冷えるよ。イバリはがんばってたよ。イバリは平気だよ。普通でそれで大丈夫な人。ちゃんと働けてたよ。見にこれてよかった。自分の姉が働いているところを、見れると思わなかったから」

 テルキが淡々というのに、イバリは唇を噛み締めた。

「ほんとにイバリは、飽きさせないね……。唇噛むのやめてね。こうくると思わなかったよ。辞める……辞めるね。そう。ぼくを車で待たせながら、そんな話をしてたんだ? いいよ。好きにしたらいいよ。イバリがこの世で一番大切だからね。バカにされちゃいけないって、僕も思うよ。僕が大切にしてきた人をバカにされたら腹立つからね。傷つくのやめてくれない? やっと店から出てきたと思ったら、制服一枚で人助けしてさ。置いて帰ろうかと思った。他人より自分を大切にしてよ。他人のことは僕を呼べばよかっただろ。これから山まで行って、頂上で降ろして帰ろうか?」

 イバリがシートベルトをしたあとにテルキが車を発進させた。
 家までは車で五分もかからない。
 バイトのシフトが入るたび、テルキが送迎してくれていた。徒歩では二十分の距離を、土日は朝と昼過ぎ、平日はテルキの仕事終わりから、閉店まで。

「だって……」

 イバリの声は震えた。

「だって、もう辞めたい。仕事したくない。雪の日に外出たくない。変なおじさんに怒鳴られたくない。それに、テルキだって、わたしに『バカ』って言った」

 テルキがバックミラー越しにイバリを見た。

「言ってないよ」
「言った!」
「イバリに嘘なんてつかないよ」

 そう、話しているうちにどっと疲労が増すような顔になっていく。
 イバリはみるみる顔を歪めていく。
 唇を噛まない、といってテルキが注意する。

「ほんとう、ありえない人だよね」
「『バカ』とか、『バーカ』って、二回くらい……言った。口パクで」
「言ってないよ」

 だんだんとイバリは自分でも言ってない気がしてきた。
イバリがフロアで転んで、掃除をしていた
思考。

 テルキが口元に手を当てた。

「『がんばれ』って言ったんだよ」
「え?」

 だから、一瞬どういう意味かわからなかった。
 テルキは記憶を掘り出すような顔でつづける。

「だから、ひとつめが『がんばれ』で、ふたつめの部分は、『また』って言ったんだよ。またねって。ねぇ? イバリは、僕をおどろかす遊びをしてる? いつも楽しいことするね。ほんとむかつく」

 消えてしまいそうにイバリは肩を丸めた。

「友だちの前で恥をかかされた」

 とテルキはいう。
 イバリだって、バイトで失敗しているところを弟の友だちに見られたくなかった。でも、言っても、テルキに勝てないのは目に見えていた。

「ごめん」
「いいよ。僕は。イバリのすることだから」
「ごめんなさい」

 言わなくていい、というテルキの言葉にも、イバリは胸を塞がれた気持ちになって切なかった。
 そのあと、LINEでシフトマネージャーと話して、二月二十八日まで、イバリはシフトに入ることを決めた。
 バイトを完全に辞めると、テルキは送迎で車を出すことがなくなった。
 三月いっぱいはゆっくりして、四月からまたバイトを探すというのは、テルキからの提案だった。

 あるとき、家でテルキを待っているときに、雨が降り出した。
 イバリは車を運転できないから、徒歩で駅まで向かいに行くことにした。その日テルキは電車通勤だった。三十分かかってようやく駅に着いた。
 LINEもしたし、GPSも入れたままにしておいたし、しっかり着込んでから行ったので、注意されることはないと思っていた。
 そのうえ、テルキのためにカイロまで用意していったから、褒められると思った。

「ありがとう。でも僕より自分を大切にしなよ」

 といって、カイロはイバリの首に当て返された。
 テルキは先を歩いた。
 イバリはマフラーを巻いていてすでに暖かかったけど、カイロのせいでさらに暖かくなった。
 テルキはしばらく前を向いていたけど、途中でなにかに気づいて、イバリを振り返った。言い忘れていたことがあった、みたいな顔で、イバリに、

「自分を大切にできて、偉いね」

 といった。












2/14/2025, 3:03:03 PM