白玖

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[楽園]

「そういえばさ、失楽園って読んだことある?」
本から顔を上げてお前は唐突にそんなことを言い出した。
「ジョン・ミルトンの? いいや」
「あれの中にさ、『罪のない性行為』ってあるんだよね。そう書くんなら罪のある性行為との対比を書くべきじゃない? 正直そこで萎えて私も全然読んでないんだけどさ」
「昔の本だろ、萎えてやるなよ」
「しょうがないで済ませられない質だから仕方ないね。そういう訳で私の中の失楽園のイメージってアダムとイブが禁断の実を食べて追放された話で終わってるんだよね」
「よくあるやつな」
うん、と呟きながらお前は俺の肩に頭を預ける。別に重くはないけど髪がくすぐったくて、どうにも好きになれない。
「ねぇ、この世界にもし本当に楽園が存在するとしたらどんなところだと思う?」
「仕事もしないで一日中ごろごろしてても怒られなくて生活が保障されてるところ」
「確かに楽園だけどもっとこう、具体的な描写とかあるでしょ。例えば常に空は晴天で程良く緑が生い茂ってて誰からも咎められることなく自由、みたいな」
「お前のも結構抽象的だと思うぞ」
「とにかく、先輩のその楽園に行けるってなったら行く?」
「何当たり前のこと聞いてるんだよ、即決で行くわ」
「……その楽園で一生一人だとしても?」
「…………お前はどうなんだよ」
「行かない、絶対にね」
「その楽園に行けばお前の望みが全部叶うとしても?」
「一人だけって前提がある時点でそもそも叶わないからね」
「お前一人嫌だもんな」
「それもあるけど、……本当に分からない?」
ああ。たった二言なのについ笑みが溢れてしまった、俺はそこまで鈍感じゃない。
「先輩がいないから、行きたくない」
素直に好意を伝えてくるお前が可愛くて、たまらなく愛しく思える。本当に、誰かに奪われなくて良かった。

「先輩の居ない理想郷よりも先輩と一緒にいられる地獄郷を選ぶよ、即決でね」
「……ああ、俺もだ」
華奢な身体を強く抱きしめる。本当は失楽園を昔に読んだ事があった。単純な読み物としては面白かったが、俺には理解出来ない台詞もあってあまり良い印象は残っていなかった。

『彼と一緒ならどんな死にも耐えられる。しかし、一緒でなければ、たとえ生きていても生きていることにはならない』

でも、今なら理解出来る。俺はお前が居ればどんな苦痛にも耐えられるだろうし、逆にお前がいなくなった世界を想像出来ない。お前が俺の心そのものなのかもしれない。
だから、どうか。

どうか、どこまで堕ちることになったとしても、お前が俺の手を離さないでいてくれますようにと、それだけを願う。

4/30/2023, 12:26:56 PM