“透明”
「……なんすか、これ」
部屋の隅に置きっぱなしにしていたチェスボードが気になったらしい後輩がしげしげとそれを眺めていた。
けして彼がチェスを知らないわけではなく、そのガラスでできた透明なチェスボードはほぼ半分しかないうえに残っている部分も亀裂が走っているので元を知らなければほとんどの人が彼と同じ反応をするだろうと思う。
元々はチェスボードの下に駒を収納するスペースもあったのだが、当然壊れた時にそこも駒も全てがガラスだったせいで粉々になって捨てた。
「チェスボードだよ。壊れてるけど」
「見りゃ壊れてるのなんてわかりますよ。なんでこんなのを置いてるんすか。あぶないっすよ」
訝しげな顔の後輩がコツコツとチェスボードの無事な面を叩いてる。
そういえば、このチェスボードを壊したやつもよく同じ様な顔をして隅の方をコツコツ叩く癖があったな。
渋い顔だが、あれは勝ち筋が見えた時の顔だった。
こうすれば勝てるが果たして思い通りに動いてくれるだろうかという焦りに近い癖で、俺は結構あのコツコツという繊細で神経質な音を聴くのが好きだった気がする。
「勝ち越しの記念だよ」
「はぁ?」
「俺が勝ち越ししたから、キレたアイツが叩き落したんだ」
「アイツって……同期のあの人っすか」
後輩の顔がひきつる。
後輩どころか先輩からも怖がられている俺の同期の一人はことあるごとに俺との勝敗をつけたがるやっかいな奴だった。
そしてことあるごとに負け続ける彼の、数少ない勝率の高い勝負事がこのチェスだった。
あの日は俺が異動する直前の、最後の日だった。
別れを惜しむなんて微塵も感じられない不遜な様子でチェスボードを持ってきた彼に苦笑いしたら即どつかれた覚えがある。
なんなら俺が異動するなんて知らないんじゃ……とも思ったが、俺が一戦目のチェックメイトを宣言したとたんに勝ち越しなんて許すか!もう一度だ!と叫んでいたから、最後という気持ちはあったらしい。
結局三戦して俺が二勝したところでアイツがキレてチェスボードを叩き割ったのだった。
しかもとんでもないことに、餞別だ!持っていけ!と怒りで顔を真っ赤にして吐き捨てて出ていってしまったのだ。
「餞別だから持っていけって言われてね。せっかくだから飾ってやろうかなって思ってさ」
「……あんたらって仲悪いっすよね」
「そうか?結構仲は良いと思うけどな?」
ただ俺が、アイツの神経を逆撫ですることを楽しんでいてアイツがそれを甘んじて受け入れてキレ散らかしているだけだ。
さて、あの透明なチェスボードの残骸をどう飾ってやればまたアイツを苛つかせられるだろうか。
5/21/2024, 9:33:26 PM