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 日が少しずつ長くなってきた気がする。それでも空気の冷たさが肌に触れて、思わず身震いした。吐く息は白い。今朝は寝坊してバタバタと家を出たから、手袋を忘れてしまった。かじかむ手をさすった後、ダウンコートのポケットに手を突っ込んだ。
「なぁ、おでん食わない?」
 隣に並んで歩いている藤本が言った。
「おでんかー」
「からあげクン?」
「唐揚げかー」
「じゃあ肉まん」
「うーん」
「お前優柔不断すぎねぇ?」
 金ないの? と藤本は言いながら、ズボンのポケットから財布を取り出した。黒い皮の二つ折り財布はところどころ禿げていて年季が入っている。親父さんのお下がりらしく、おいそれと新調しにくいらしい。
 俺もいくら財布に入っているか、財布を取り出した。入学祝いに親からプレゼントされた茶色の二つ折り財布だ。みすぼらしいからこれ使えって突然渡されたが、意外と丈夫だし派手じゃないし気に入っている。
 財布の中身は、千円札が二枚と、十六円分の小銭しかなかった。小銭が少ないのは、昼休みに友達のジュースを奢ったからだ。学年末テストの総合点数を競っていて、たった二点差で負けてしまった。三本分三百七十円。誰だ、大きいペットボトルをリクエストしたやつは。バイトしていない男子高校生のお小遣い舐めんなよ。
「俺、千円ちょっと。今野は?」
「俺は二千円ちょっと」
「え、いいな。じゃあ今日奢りな」
「絶対嫌」
「だよなー」
 お互い財布を仕舞ったところで、隣から「ハックション!」と大きなくしゃみが聞こえた。よく見たら藤本はブレザーの下にVネックのニット、ワイシャツしか着てないように見える。マフラーはしているが、見るからに防寒性が低い。
「お前寒くないの?」
「寒いに決まってんじゃん」
 鼻をズビッと鳴らして藤本が言う。俺はリュックから箱ティッシュを取り出して彼に差し出した。目の前に差し出された箱ティッシュを、彼はまじまじと見た。
「何で箱? 花粉症だったっけ?」
「家に小さいティッシュなくて、母さんに聞いたらしばらく箱持っていけって。アンタのカバン大きいから入るでしょって」
「何それオモロ」
 あざーっす、と藤本は二枚取って鼻をかんだ。箱ティッシュは嵩張るけれど、紙が大きいし取り出しやすいし便利といえば便利だ。
 箱ティッシュをリュックに戻しながら、ふと思いついた。
「マックのポテトは?」
「いいね! Lサイズ山分けしよう!」
 食べたいものが決まって、二人で歩くスピードが少し速くなった。藤本は何を思ったから分からないけれど、俺は単純に早く温まりたかっただけだ。


   *


 駅前にあるファストフード店はリーズナブルな値段のため、いつも周辺の学校に通う生徒で賑わっている。部活帰りの今日も、制服を着た人たちで混み合っていた。
 席取りを藤本に任せ、俺は列に並んだ。このお店はセルフオーダーレジを採用していて、注文と受け取りと二箇所に分かれている。このレジに慣れるのに、結構時間が掛かった。今はスムーズに操作できるけれど。
 ようやく俺の番が来た。ポテトのLサイズと、藤本のコーラと俺のホットコーヒーを注文した。今日はポテトのクーポンが配信されていたので、五十円引きになる。ラッキー、と思いながら、番号札を持って一度席に行った。
「いくらだった?」
 二人掛けのテーブル席に着いてスマホをいじっていた藤本が顔を上げた。俺はレシートを渡して「割って」とだけ伝えた。
 藤本はレシートを目を細めながら見つめて、眉間に皺を寄せた。
「ポテトLが三百三十円、コーラとホットコーヒーが百二十円ずつ。だから、えっと、えーっと……?」
「スマホ使えよ。あと割るのポテトだけで、飲み物代はコーラだけちょうだい」
 椅子の下にリュックを置いて、レジカウンターの上にあるモニターを確認した。番号が表示されている。俺は番号札を持って、受け取りに行った。
 もう一度席に向かうと、藤本はまだ唸っていた。頭を捻るどころか体ごと横に傾いている。
 テーブルの上のレシートを避けながら、トレーを置いた。藤本の前にコーラを、俺の方にホットコーヒーを置いて、トレーに乗った広告の上にペーパータオルを重ねて広げた。そして、ポテトが取りやすいように入れ物から全部出した。
「五円なんてないんだけど」
 財布の小銭入れを開けて見せてきた。確かに五円玉も一円玉もない。
「二百八十五円なんだけど」
「じゃあ二百八十円でもいいよ」
「悪い、ありがとう。五円分多くポテト食っていいから」
「五円分のポテトって何本だよ」
 藤本からもらったお金を財布にしまった。ついでにリュックからウェットティッシュを出して彼に差し出す。彼はそれをまたまじまじと見た。
「お前は俺の彼女だった?」
「はっ倒すぞ」
「いやだって……わかった! ドラえもんだ!」
「誰のリュックが四次元ポケットだよ」
「でもウェットティッシュは箱じゃないんだな」
「箱二つあったらなんも入んねぇよ」
 軽口叩きながら二人で手を拭く。綺麗になった手でポテトを取って食べ始める。美味い。
 藤本はスマホ片手にポテトを摘んでいた。無言になるかと思ったが、不意に話しかけられた。
「来週さ、卒業式じゃん」
「おー」
「俺さ、先輩に告ろうかな」
 藤本は入学当初から、自分たちの所属している男子バスケ部のマネージャーだった松本絵梨花先輩が好きだった。率先してマネージャー業務を手伝ったり、困っている先輩に声をかけたり、積極的にアピールしていた。先輩が部活を引退してから会う機会が極端に減ったが、廊下ですれ違ったら挨拶したり、部活の様子を見学しにきた先輩と話し込んだりしていて、側から見ても雰囲気が良さそうだった。
「いいじゃん」
「でも周りに色んな人いて怖くね?」
「呼び出せば?」
「卒業式なんて呼び出しばっかだろ」
「俺は周りで告り始めたやついたら、遠巻きに見るだけで騒がねぇけど」
「女子は騒ぐだろ」
「騒ぐなぁ」
 藤本はため息をついて、ぼんやりとスマホ画面を眺めた。特別何かを見ているわけではないようだ。やがてスマホをテーブルの上に伏せるように置いて、ポテトに手を伸ばした。
 来週の火曜日が卒業式だ。それが終われば、俺たちが一番上の学年になる。きっと夏前には部活を引退して、そこからは受験勉強に明け暮れることとなる。こうして部活帰りに呑気にポテト食って喋っていられるのも今のうちだ。
「藤本」
 向かいに座る彼が目線だけ寄越した。頬杖を立ててポテトをつまんでいるから、態度が悪く見える。
「もう卒業式だけだぞ。先輩と話せるの」
 藤本の目が見開かれる。
「告るも告らないも藤本の自由だけど、先輩と約束もなく会えるのって来週で最後だろ。大学生って忙しいんだから、まだ高校生のお前に構ってくれるか分からない。それに四月から受験生だからな。インハイ予選終わったら、きっとそれどころじゃなくなると思う。だから後悔のないようにな」
 藤本は、真剣な表情で頷いた。そんな顔、監督が檄を飛ばしている時以来なんだが。
「ちゃんと考える」
「よし」
 俺はぬるくなったコーヒーを飲んだ。味が少し飛んだのか、あまり美味しく感じられなかった。
 藤本はポテトをつまむスピードが速くなった。おい、絶対二百八十円以上食ってくるだろ。俺もまだ食べたいんだけど。考えながら物を食うからそうなるんだよ。俺も焦ってポテトに手を伸ばした。なぜだか食べた気がしなかった。


   *


 混み合う店内で長居をするつもりはない。ポテトを食べ切って(藤本が四分の一多く食べていた)飲み物を飲み切って、すぐ席を立った。ゆっくり歩いているうちに消化されるだろう。
 ゴミを捨ててトレーを返却して店を出た。辺りはすっかり暗くなっていた。先ほどよりも寒くて、俺はダウンコートのジッパーを首までしっかり上げた。
「いいな、ダウン」
「あげられねぇぞ、さすがに」
「大丈夫、俺にはマフラーがある」
 そう言って、藤本は黒いマフラーを首にぐるぐる巻いた。いやだから防寒性が低過ぎて、見ているこっちが寒いんだって。
 駅の改札を通って、駅のホームに向かう途中で二人とも足が止まった。俺は上り電車で、藤本は反対方向だからホームが違う。まだお互いに次の電車まで十分程度あるから、少し話せると思った。
「今野、ありがとな」
 突然感謝を述べられて、困惑した。
「何が」
 恐る恐る尋ねると、藤本は笑った。
「何だよ、笑うなよ。怖いだろ、突然ありがとうなんて。何、死ぬの?」
「死なねぇよ」
 彼は目尻を指で触った。おい、泣くほど笑えることだったか。そんな風に聞きたかったが、さすがに声には出せなかった。
「俺の話、真剣にアドバイスしてくれてありがとな。他の人に相談しても本気にしてくれなくてさ」
「日頃の行いが祟ったな、可哀想に」
「うるせぇよ。マジでちゃんと考える」
「おう」
「で、お前に報告する」
「多分遠巻きに見てるだろうけどな」
「何で告る前提なんだよ。まだ分かんねぇだろ」
「だってお前分かりやすいんだもん」
「マジかよ」
 藤本は片手で頭を抱えて俯いた。はぁ、と長いため息が聞こえて、今度は俺が笑ってしまった。
 指の隙間から彼がこっちを見た。
「慰めろよ」
「オッケー。失恋記念のカラオケ大会とスマブラ大会、どっちがいいか考えとけよ。副島と葛城も強制参加させるから」
「人の告白なんだと思ってるの? もはや部活の打ち上げじゃん」
 駅のアナウンスが聞こえてきた。どちらの電車もまもなく到着予定だ。
 俺たちは別れて慌ててホームに降りた。タイミングよく電車が止まった。降りる人を待っている間に、後ろから呼ばれた。
「じゃあまた明日な」
 笑顔で手を振る藤本に、手を振り返した。すぐに手を下ろして電車に乗り込んだ。空いている座席に腰を下ろした。真っ暗の中、ポツポツと明かりが灯っている。それらが横に流れていくのをぼんやりと眺めていた。
 この楽しい日々は、いつまで続いてくれるのだろう。できれば、ずっと変わらず続いてほしい。



『過ぎ去った日々』

3/10/2024, 5:36:46 AM