〈消えない灯り〉
冬の朝の空気は、肺に刺さるほど冷たい。目覚ましより少し早く目が覚めたのは、今日が受験日だからだろう。布団から抜け出すと、床の冷たさが一気に足先へしみ込んでくる。台所では母が湯気の立つ味噌汁を温めていた。
「起きたの? 緊張するでしょ、あったかいの飲んで」
お椀を受け取ると、指先がじんと熱を取り戻す。その温もりが胸にも広がった。
ふと窓の外を見る。向かいの家の二階の部屋に、今日も小さく橙色の灯りがともっている。街はまだ夜の影を引きずっているのに、その光だけは冬の闇に浮かんでいた。
──
僕は毎朝四時に起きる。この生活を始めて四ヶ月。最初はつらかったが、今ではすっかり体が覚えた。布団から出ると部屋の空気は冷え切っていて、暖房が効くまでの数分が一番堪える。
静まり返った部屋で、凍えた指先をこすりながら参考書のページをめくる。その単調な時間に、ふと窓の外の灯りが目に入った。
気づけば毎朝、向かいの家に必ず点いている。
「向かいの家って、お年寄り二人だよね?
いつも電気ついてるんだけど」
朝食の席で母にたずねると、卵焼きを返しながら言った。
「お年寄りなんて言ったら失礼よ。
ご主人、市場勤めで朝が早いんですって。もう何十年も続けてるらしいわ」
なるほど、と思った。僕が受験勉強で早起きするあいだ、向かいのおじさんは仕事へ向かう準備をしていたのだ。真冬の朝でも、何十年も。
その日から向かいの明かりは、僕の中で特別な存在になった。つらい朝でも、灯りがともっているのを見ると不思議と背筋が伸びた。誰かが頑張っている。その事実だけで、自分も踏ん張れる気がした。
十二月が過ぎ、一月の寒さはさらに厳しくなった。洗面所の水が痛いほど冷たい朝も、向かいの明かりは変わらずそこにあった。
──
そして受験当日。通勤ラッシュに巻き込まれないように、早く家を出る。
母が玄関で慌ただしく確認する。
「受験票は? 筆記用具は? お守りも持った?」
「全部あるよ」
外に出ると、吐く息が白く立ちのぼった。
ちょうどその時、向かいの玄関も開き、奥さんがゴミ出しに出てきた。
「あら、おはようございます」
「おはようございます」
挨拶すると、奥さんがふわりと笑った。
「今年受験なんですってね。
毎朝、電気がついているから、うちの主人と話してたのよ。頑張ってるねって」
思わず目を見張った。向こうも僕の灯りを見ていたのか。
「主人ね、今朝も『そろそろ本番だな』って。
応援してるって言ってましたよ」
胸が熱くなる。冬の冷気より、その言葉のほうがずっと強く沁みた。
「ありがとうございます」
「行ってらっしゃい。頑張ってね」
送り出すようなやわらかい眼差しに頭を下げ、自転車にまたがった。
駅へ向かう途中、信号待ちの間に振り返る。薄暗い空の下、僕の家と向かいの家の灯りが並んでいた。
電車に揺られながら窓の外を見る。明けきらない街に、ぽつぽつと明かりが灯り始める。
──消えない灯り。
あの光は、誰かが頑張っている証だ。市場のおじさんも、受験生の僕も。きっと他の誰かも、まだ暗い朝に小さな灯りをともしている。
そしてその光は、誰かに届く。僕が向かいの灯りに励まされたように、誰かが僕の灯りを見ていた。
いつか自分も、そんな灯りになれたらいい。
電車が駅に滑り込み、僕は立ち上がる。ホームに降り、凍りつく空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
さあ、行こう。
灯りを、消さないために。
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真っ暗にすると眠れないので、タイマーで1時間後に消えるようにしています。
たまに、消し忘れて明け方に気づくこともあったりなんだり。
自律神経的には、ホントは良くないんですけどね。
12/7/2025, 8:59:12 AM