TK

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瞼の向こうでは、誰かの泣き声が聞こえていた。
その声は、とても愛しい。
けれど、ゆっくりと、音は遠ざかっていく。

「ん……?」

目を開けると、綺麗な世界が広がっていた。
わぁ、と小さく歓声を上げ、一歩足を踏み出す。柔らかな草の感触が素足に伝わってくる。小さい花や大きな花が、心地好い風に揺れる。
背後では穏やかに水が流れる音がする。振り返ると大きな川が広がっており、見事に透き通った川の色に感嘆の息をつく。
そして、寂しさを覚えて唇を引き結んだ。
なんとなく、川の向こうにはもう行くことができないと感じていた。
けれど川の向こうに、行けなくてももう構わないと思っていた。
寂しさと同時に、確かな充足感が胸を占める。
優しくて温かい風が頬を撫でる。
「……ありがとう」
自然と、その言葉を口にする。
その時、慌ただしい足音と、懐かしい声が聞こえた。
記憶が揺さぶられ、濁流のように当時の感情が湧き上がる。まっすぐに日常を生きていくために、胸の奥に仕舞い込んでいたものが溢れてくる。
自然と目からは涙が流れていた。
振り返ると彼が、私を優しく見つめる。その眼差しは、ずっとずっと、私が恋しく思っていたものだった。
懐かしい声が、私の名前を噛みしめるように呼んだ。
その声が私の胸の奥をぐちゃぐちゃにかき混ぜ、新しい涙となって頬を伝う。
「あ……」
言いたいことは山程あるはずなのに、私は何も言えなかった。
彼は私に歩み寄り、頬を撫でる。若々しい手に撫でられるのは、少し、恥ずかしい。彼に比べて、私はすっかりおばあちゃんになった。早くに亡くなった彼よりもずっと長く生きた証拠だ。
「しわしわだ。よく、がんばったね」
そう。私は頑張った。
大切な彼を失って自暴自棄になりそうになる心を支えてくれた人と結婚して、家庭を築いた。そして、とても幸せな人生を送った。
それでも、彼に会いたいと心の片隅では、ずっとずっと、思っていた。後を追いたいと思ったことだってある。
「あいたかった」
涙に崩れた顔で、一言告げる。
「俺もだよ」
抱き締める腕は、あの時と同じで温かくて優しい。
「たくさん、生きてくれて、ありがとう。おばあちゃんになるまで、元気に長生きしてくれて、ありがとう」
彼なら、そう言うと思っていた。
後を追うことを望まないだろうと分かっていたから、懸命に、幸せに生きてきたのだ。
「素敵な人と結婚して、可愛い子どもに恵まれて、幸せそうなきみを見ていて、すごく幸せだった」
彼の声が涙に揺れる。
「最後はたくさんの温かい人に囲まれていて、本当に良かった……」
私の背を抱く手に力が籠もる。彼は、震えていた。鼻を啜る音が響く。私は、彼の背中を優しく撫でる。
「きみを置いていって、ごめん。……きみを、置いていきたくなかった…!」
「……大丈夫よ。こうして、また会えた」
私は泣きじゃくる彼の背中をあやすように撫で続ける。

「これからは、ずっと、一緒よ。一緒に、大切な人を見守りましょう」
「ああ、そうだね」


※※※

「おばあちゃん、幸せそうな顔してるね」
亡くなった祖母は、穏やかな微笑みを浮かべていた。
祖父は泣きすぎて真っ赤になった目を細めて笑う。
「ああ、そうだな」
祖父のしわしわの手は、優しく祖母の頬を撫でる。
「ありがとう」
その時、祖母の優しい声が聞こえた気がした。
「ありがとう」と。 

【君に会いたくて】2024/01/19

1/19/2024, 2:05:37 PM